うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

社会「被虐待児の成れの果て つづき」

 ずっと前に書いた記事だけども。

mianie.hateblo.jp

 その後、裁判がはじまり、わたしでもいろいろとネットで情報がわかるようになったので、思うところを書いてみたい。

 

 まず、被害児は母親に愛されていたのだな、と思った。むろんこれを否定するむきもあると思う。”ほんとう”に、こころから、子どもを愛していたなら、命をかけてでも被害児を死なせることなどなかった”はず”だと。しかし、それは健全な強者の理論だ。弱者を圧殺する、有害な考えだ。その理論こそが、被害児を死なせることになる。

www.huffingtonpost.jp

 ハフィントンポストがまとめているこの裁判記録をみるとわかるが、被告となっている母親はあきらかに弱い人間であり、それに対して強い自責の念を持っている。また、主犯の父親からのすさまじい精神的な圧迫があるのがわかる。母親のことばを読んでいて、わたしは、子どものころを思い出した。わたしの父も、この父親のような人間だった。おまえは無知で無力でかぎりなく愚かなのだと信じこませようとする。

 わたしは幸い、皮肉にも、父ゆずりの知性と、おそらくは父ゆずりのアスペルガーという特性があったから、父が幼稚にも、「おれにすべての関心をむけて、おれにひざまずいて感謝しながら生きろ」と要求しているのがわかった。だから反発し、反抗した。支配されることなく生きのびて、逃げ出した。

 けれども、この母親の場合は、支配に取り込まれてしまった。この母親がわたしより弱かったのかもしれないし、親子と夫婦という関係性のちがいかもしれないし、性格のちがいかもしれない。しかし、理由がどれであったとしても、取り込まれてしまった母親が悪いということはない。なにかの悪い歯車が、運悪く、噛みあってしまったのだろう。

 

 こういう、弱く、虐げられて、どうしていいかわからなくなっている保護者を見つけ、救い、守るという考え、しくみがないのなら、被害児は絶対に助けられない。母親はあきらかにDVを受けているが、自覚がないから訴えられなかった。話している内容から、解離のような症状がみられる。わたしも経験があるからわかる。いつの間にか時間がたったり、目のまえのことが現実のように感じられなくなったり、覚えているはずのことをまったく思い出せなかったりする。それくらい、母親は追い詰められていた。

 

 検察側は母親を、娘よりも夫を選んだだけとして、懲役十一年を求刑しているという。絶望的な見解だと感じる。ネットをみてみると、これでも短い、一生塀のなかにいろ、死刑でいいじゃないか、という意見がたくさんある。なんて刹那的な、快楽主義的な反応だろうか。圧倒的に正しい立場から、圧倒的に悪いとされる存在を断罪して、自分が正義を執行したかのように誤認する。検察側の言い分が採用されるなら、被害児の苦痛も死も、ただ正義の快感を得るためのものとして消費されて、終わる。なんの教訓も残らない。またほかの虐待死事件が起こり、埋もれていくだろう。

 

 ゆるせない、ゆるせない、そんな言葉ばっかりがネットにあふれているが、弱く、子どもすら守れない親というのを受容できない社会であるかぎり、弱い親たちは声をあげて助けを求めることなく、自分や子どもが配偶者や、自分たちを支配する強力なだれかに壊され、ゆがめられていくのを、ただ黙って受け入れるほうを選び続けるだろう。その過程で弱い子どもは死に、死にそびれた子どもが、からだだけ大人になって、他者を支配したがる人間につかまる。もしくは、「ふつう」をもとめて無理やりに結婚する。そうやってつづいていくんだろう。

 

 世間はこのサイクルを、自覚しないまま望んで、実現している。

 きっとまた親が殺す。子どもが死ぬ。よかったね、また、かわいそうって正しい涙を流して、許せないって正しい感情で、厳罰をって正義を求めることができるじゃないか。