うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

昔の話「生まれない自由がない」

 親は子どもをえらべないし、子どもは親をえらべない。一見平等だけれども、親は子どもの絶対的な支配者になれること、そして親には生まない自由があることを考えると、生まれない自由がない子どもはなんなのだ。

 

 昨今自己肯定感という言葉が世にあふれているけれども、自己肯定感のあるひとというのはたぶんこの生まれないことをえらべないという不自由に気づかず生きていけるひとだと思う。反抗期に「生んでくれって頼んだ覚えねえよ!」と反射的に言ったことはあるけど、まあ深くは考えていないような。

 それが自己肯定感だ。たぶん。知らんけど。

 

 子どものころ、母親は親切に、父方の祖父が男子をもとめていて、女児の出産に落胆していたことを教えてくれた。父親は言動で、おまえが男であったらよかったのにと示してくれた。そして母親と父親は、子ども心にさえ「このひとたちは結婚するべきではなかった」と思われるほどの、激しい相性の悪さを見せつけてくれた。暴力、愚痴、自殺未遂、離婚のほのめかし、「あんたたちがいるから離婚できないんだから」、繰り返し繰り返し。

 そのあいまの健全な家庭ごっこ。楽しくなくても楽しいふり、しあわせで愛された子どものふり。嘘は咎められるのにこういうときの嘘は受け入れられる。ふしぎ。

 こういう生活で生まれるのは自己否定感というやつだ。演じているから存在を許される。ご機嫌をうかがってやっと呼吸ができる。ふつうの人間のふりをして生きていられる。ひっくり返すとそうでなければ存在を許されないし呼吸はできないし生きていられないということ。

 

 この自己否定感をひっくり返すのはむずかしい。というかできるのかどうかわからない。少なくともわたしはできていない。子どものころからずっと父親と母親は結婚するべきではなかったと思っている。それはわたしが生まれるべきではなかったということとイコールだが、そのとおり。父親と母親が結婚することでしかわたしが生まれないのであれば、生まれるべきではなかったのだ。自己肯定感など育ちようがない。父親と母親が結婚してしまったことが、まずまちがいなのだから。

 

 だから、父親がわたしをいくら殴ってもしょうがない。母親がわたしをどれほどすり減らしてもしょうがない。生まれなければよかったのに、生まれてきてしまったんだから。父親も、母親も、生まれてくるべきではなかったのに生まれてきてしまったんだから。

 唯一の救いは、生まれない自由はなくても、死ぬ自由はあることだろうか。マンションの10階から地面を見下ろしている、小学生のわたしに言ってやりたい。おまえは正しい選択をしている。おびえるな。それでも泣くなら、わたしが投げ落としてやりたい。かわいそうだから。