うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

こもごも「親子とはそもそも不平等な関係である」

 親であることをやめることはできる。やり逃げ、やり捨てができてしまう男がもっともわかりやすいだろうが、女だろうと、堕胎や生んでからどこかに預ける、あるいは捨てるなどの方法で親であることを放棄することができる。自分に子どもなんかいなかった。自分は子どもなんかつくらなかった。自分は子どもなんか生まなかった。そう思い込むことができないひともいるだろうが、できるひともいるだろう。

 なんでできるのかといえば、すべての人間が親になるわけではないから。つくらないひともつくれないひともうまないひともうめないひともいる。みんながみんな繁殖するわけではない。子どもをもたない人間はべつにめずらしくもない。

 

 子どもであることをやめることはできない。だれもがだれかの子どもだ。生物学的な両親がいない子どもは存在しない。そういう意味では、親のいない子などはどこにも存在しない。

 

 わたしはアホなので、一時期放射線のちからにものすごくあこがれた。わたしのからだのなかにある二重らせんをすべてぐちゃぐちゃに断ち切ってだれの遺伝子も持たない人間になりたかった。そんなことをすれば当然無残な死を遂げるだけなのはわかっていたけど。わたしは父に似ている。顔も似ているし性格も似ている。顔は遺伝子によるものだろうが、性格については遺伝子の影響だかいっしょに暮らしたことによるものなのかさっぱりわからない。

 

 よく、「子どもを愛さない親はいない」と言われるが、これはどう考えても間違いである。子どもを愛さない親などごまんといる。いないのは逆ではないか。親を愛さない子どもなどいないというのが真実ではなかろうか。子どもの親に対する憎しみや恨みの底にあるのはたぶん愛だ。愛というか、愛着だ。親個人に対するものではなく、親という存在に対するどうしようもない執着心だ。

 わたしは両親をにくんでいるしきらっている。ゆるすことは絶対にできない。それは両親ではなくてわたしの問題だ。にくむこともきらうこともやめてゆるしてしまったら、たぶんわたしは両親を愛してしまう。いまでも好きだ。

 インナーチャイルドという言葉があるが、わたしの気持ちをそういう存在に仮託するならばこうだ。ひとりの子どもはこういう。「お父さんとお母さんのこと、ゆるしてあげよう、なかよくしようよ、きっとわたしがわるかったんだから、こんどこそ、ちゃんとしたあのひとたちの理想の子どもになって、愛してもらおう! がんばろう、つぎこそできるよ!」、もうひとりの子どもはこういう。「ダメ、絶対ダメ、あのひとたちは愛してなんてくれないんだよ、わたしがなにしたってダメなんだよ、そんなひとたちゆるすなんておかしいよ、なにされたか、してもらえなかったかわすれたの? 怒っていようよ、憎んでいようよ! そうじゃないとダメだよ!」、そんな感じ。

 こういう気持ちがあばれるたび、わたしは自分を殺すか、でなければ、親を殺すかしないかぎり、なんの解決もみないのではないかという気がしてくる。

 

 親は子どもをえらべない。子どもは親をえらべない。そして、子どもは親から逃げられない。