うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

発達障害「自分の苦手なことを考えてみる」

 発達障害、というか自閉症スペクトラム、というかアスペルガー障害の特徴に、いじめにあいやすい、虐待被害者になりやすいというのがある。つまりそれって、被害者側に原因があるということではないのか。父母もアスペルガー障害であるわたしさえいなければ、虐待などすることなく生きたのかもしれない。姉や妹も健全な家庭ですごせたのかもしれない。

 などと考えて落ち込んでいたが、まあ、考えたところでどうしようもないし、よく考えたら父はわたしが生まれるまえから母に暴力をふるっていたそうだから、そういうやつだったんだよな、と結論付けることにした。いじめは受けたことがない。家族以外の周囲の人間の好意をむさぼって生きてきた自覚がある。

 

 落ち込むだけ落ち込んで浮上したあと、昔のことを考えるにしろ自分を振り返るにしろ、もっと建設的なことを考えよう、と思って、自分の苦手なことを考えてみた。苦手がわかれば得意がわかる……ような気がする。苦手がわかればそれを避ける方法がわかる。……と思う。

 とりあえずまあ発達障害の症状(?)になるのかなというのを書いてみる。しかしべつにこれは発達障害じゃなくておまえの特性だよというのもあるかもしれん。わからん。なにもわからん。

 

 まず、人間が苦手だな。いきなり主語がデケエ。しかし真実だ。

 思うに、人間というのは情報過多だ。男とか女とか顔の感じ髪の感じ服装喋ること思っていること考えていること手の動かしかた表情歩行速度などなど。圧倒的情報過多。圧倒的情報過多に接してしまうと、その情報解析にリソースを食われてしまい、エネルギーを浪費して、結果、すごく疲れる。

 この感覚がよくわからん……というひとは、ざわざわと騒いでいる人込みのなかに入っていって、そのなかで、すべてのひとをひとりひとり見つめていきながら、すべての会話を聞き取ろうとしてほしい。頭がグラグラしてくると思う。そういう感じだ。そういう感じが、わたしは人間がそばにいるかぎり強弱の差はあれずっとあるのだ。

 よって、わたしは多数の人間が集まるような場所は苦手だし、疲れる。

 

 それなら一対一は大丈夫ということかとなるが、これもまた苦手だ。

 一対一になると、一対多数(正確にいうと対してはいなくて勝手に情報受信しているだけなのだが)よりも負担が少ないように思えるのだけれども、実際には会話というものすごくすごくすごくすごーく疲れる行為がともなうので、結果一対多数よりもずっとずっとずっとずーっと疲れる。会話というのはキャッチボールにたとえられる。かなり的を射ている。運動音痴のキャッチボールを想像してほしい。相手の球を取るので精いっぱい。受け取った球を解釈するのにまた精いっぱい。投げるときにも投げ方、相手の姿勢、この球でいいのかといっぱいいっぱい。そして相手がとれる球だったか、暴投してないか、ひやひやしながら見守る。

 疲れる。

 ただ、これは相手にもよる。通常、人間はというかそれなりに知識と教養をそなえたと自負するような人間は、言外にいつも含みを持っている。そういうのが疲れるのだ。こっちはボールを受け取るので精いっぱいなのに、相手のボールを投げる姿勢とかまで注視しなければならない。そうでなければ球を読み違える。変な球を投げてしまう。よって疲れる。

 しかし、子どもや歯に衣着せぬような物言いをするひとは、言葉がそのまんま言葉のまま。球をみながら球を受けて球を読んで返せばいい。楽。あんまり疲れない。

 よって、いわゆる「大人の会話」をする相手との一対一が苦手だということになる。

 

 ひとの眼を見ることも苦手だ。このあいだ、甥っ子に読んでほしいと言われた本を読んでいたら、「ありがとうは相手の目を見て言いましょう」というのがあって、アスペの子どもにとっては地獄のような提言だなと思った。相手の眼を見ないというのは、だいぶ不信を抱かせる、疑わしい、誠意の感じられない行為であるというのはわかっている。ので、いちおう瞬間的に視線を合わせてみたり、ごまかそうという努力はしている。しかし無理なものは無理。苦手なものは苦手。

 わたしの父はたいへんアスペっぽいのだが、「眼を見ればなんでもわかる」教信者でもあり、頻繁に「眼を見ろ」と言ってきた。そういうときぐらいしか、わたしが長時間だれかの眼を見ることはなかった。で、長時間相手の眼を見続けたときにどうなるかというと、まず、眼以外のすべてが消える。あとはハレーションする光が渦巻くようになり、だんだん視界が暗くなっていく。眼だけ切り取ったように光のなかに浮かび、グルグルと回るようなこともある。眼の奥が揺れるような感じがして、とても目を開けていられなくなる。ラリってるのかという感じだが、しらふでこうなる。高ストレスに対する防御反応なのかなんなのかはよくわからない。

 よって、わたしはひとの眼をみることが苦手だし、無理だ。

 

 あとは道具をつかってなにかをするのが苦手だ。球技とか、化粧とか。自分の手だけならばむしろ得意(折り紙とか)なのだが、あいだに道具がはさまると苦手になり無理に至る。じゃあ自分の体をつかうのは得意かというとそうでもなく、運動は全般的に苦手だ。逆上がりもできないし、縄跳びも二重とびあやとび交差とびができなかった。走るはまあまあふつう。泳げはする、クロールがまあまあ得意。

 

 こうしてみてみるとできる仕事なんてないのではという気分になってくる。ひとと接さない仕事なんてあるか。いや、ぜんぜん接さない仕事をさがす必要はないのだ、ある程度ひととかかわらずにすむ仕事であれば。すべての要求をみたす仕事などあるはずがないのだから。

 しかし、昔はマタギにあこがれて猟師になりたいと思っていた時期があった。これは究極にひとと接することのない仕事ではなかろうか。自分の特性を無意識に理解していたのかもしれない。道具をつかうけど。うまくやればアスペ垂涎の仕事となりえるかも? わたしは精神障害者だからもしかしたらもう銃を持つ許可はおりないかもしれないが、罠猟師くらいにならなれるだろうか。ちょっと調べてみたいが、こんど区の職員さんと会うときに、「猟師になりてえ!」とは言いたくないな。あ、区の職員さんに自分にあう仕事の傾向をさがしてみるといいかもと言われているんです。まあ今回自分の苦手なことを考えるのは、仕事をさがすためというより単に生きるためであったのだけれども、ここに着地した。わかんねーな。

 

 きょうはこれでおしまい。