うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

うつ「ひとをうらやみながら生きることについて」

 わたしはあまりひとをうらやんだりねたんだりしないほうだ。自分のことをそこそこ気に入っている。自己肯定感にはなぜかつながらないが、悪くはない人間だと思っている。すごく頭がいいというわけでもないし、うつくしさとはほど遠く、メンタルはぼろぼろで、なにか、これ! というとりえがあるでもない。楽器も弾けないし、歌も下手だし、手先もそう器用ではない。ひととのコミュニケーションは苦手で、作り笑顔ばかりがうまく、すぐに相手の思惑や裏を探りたがる。でも、まあ、こんなものだろう、と受け入れている。

 だから、わたしはわたしを、ひとをうらやんだりねたんだりしないほうだと思っていた。しかしちがった。わたしはうらやむこと、ねたむことから無意識に逃げていただけだった。

 

 友人の結婚式に出席したとき、新婦の父親が結婚式を見ることなく病で亡くなっていて、そのことについて新婦が両親への手紙にして読んだのを聞いた。みんな感動して、おなじ席の友人などは涙をこぼしていた。新婦の父親に対する愛が、そして新婦にそそがれた亡き父親からの、母親からの愛が目に見えるようだった。わたしはそれをどう消化していいのかわからなかった。どうやら、わたしはなにかを感じている。しかしそれはこの式にいるだれともちがう感情のようだ。なんだろう。なんだろう。

 式が終わり、ホテルで休んでいるときに、思い当たった。これは羨望と嫉妬だ。わたしは友人である新婦がうらやましくてねたましくてしょうがないのだ。愛ある家庭に生まれ育ち、父の死を哀しむことのできる友人が。自覚して、自分がおそろしくみじめに思えた。新婦が語ったのは自慢でもなんでもない。父の死と、結婚式に出席してもらえなかったことへの哀しみだった。それに対してわたしが感じたものが羨望と嫉妬だとは。

 うらやましい、ねたましいという感情はあまりにも残酷だ。ほしくてたまらなくて、けれど手に入れられなかったもの、これから先も永遠に手にすることのないものを、あまりにもくっきりと浮かびあがらせる。わたしは愛がほしかった。健全な家庭で生きたかった。しあわせな子ども時代をすごしたかった。でも、もう間に合わない。もう遅い。

 羨望と嫉妬は、いつも無意識がいっしょうけんめい押さえつけてくれていた。わたしにとってあまりにもストレス負荷が高い感情だからだろう。だから、わたしはひとをうらやんだりねたんだりしない人間だと勘違いしていられた。ずっと勘違いしていればよかった。ひとをうらやみながら、ねたみながら生きるのは疲れる。手に入らなかったものを意識しながら生きていくのは、ただでさえ困難な生きていくことを、よけいに困難にする。

 

 しかしながら、わたしはまたうらやましくてねたましいものに出会ってしまった。詳細は割愛する。わたしのあきらめた夢の世界のちかくで生きているひとと、わたしがあきらめた、父母に否定された道をすすむ子どもが、母親に肯定されている姿を見てしまった。わたしは父母に否定されたのに、彼らは肯定され、支援され、迷いなく進んで行っている。吐き気がする。はじめのうちはまたうらやみとねたみに気付かずに、このもやもやする感情はなんだろうといぶかっていた。気付かなければよかった。

 他人をうらやんだところでねたんだところでどうしようもないとは、先人が何度も言葉を重ねている。しかしそのどうしようもない感情をどう処理すればいいかまでは教えてくれない。

 果たして、わたしは、苦しいからうらやむのか、ねたむから苦しいのか。鶏卵の問題というやつかもしれない。けれど実際には鶏卵の問題など存在しない。鶏が先か卵が先かなどというのはじつにナンセンスな問いだ。卵から生まれる生物はいても、卵から発生する生物はいない。卵というのは生物が生殖と再生産という能力を獲得した結果、生まれてくるものだ。だから当然鶏が先だ。哺乳類で考えればもっとよくわかる。人間が先か妊婦が先か。人間に決まっている。だからこのわたしの問題も答えは決まっていて、苦しいのが先だ。愛のないこと、肯定されないことがこんなにも苦しく、つらいことでなければ、うらやみもねたみも生まれない。なんか自分で問題提起して自己解決している。

 

 とりあえず、いま、わたしはとても苦しい。

 これが上記のできごとによるのか、気圧の関係なのか、季節のせいなのか、処方の変更によるものなのか、まったく見当がつかないけれどとにかく苦しい。生きることは苦痛に満ちている。この苦痛は、いつかやわらぐものなのか、治療によって回復することで癒えるものなのか。それを確かめるまえにめげていろいろとあきらめてしまいたいような気分だ。

 

 外は曇天、いまにも雨粒がしたたり落ちてきそうな気圧のさがりよう。この湿気た曇天というのがいちばん嫌いだ、いっそ降るなら降ってくれ、という感じはわたしの人生に似ている。もうすこし打撃をくれたら、いさぎよく消えてやれるものを、最期の一撃だけがいつまでも来ない。