うつでなまぽ

うつ病で生活保護受給者中の生きものがいろいろ書きます。

うつ「愛されてるやつがずるくってつらいけど」

 カテゴリうつでいいのか? という感じだけれども。

 ニコニコ動画YouTubeで活動中のシンガーソングライター? ボーカロイドプロデューサー? のカンザキイオリ氏の曲について書きたいと思った。もうじゅうぶん有名であろう氏に対してこのようなうつでなまぽブログからの紹介など必要ないということはあきらかだが、万が一、うつでなまぽを読むような人間で、カンザキイオリ氏の楽曲を知らないとしたらそれはもう、非常な損失であるので、そういうひともいるかもしれないな、という薄い可能性にかけて記事を書くこととする。

 個人的にアダルトチルドレン三部作と呼んでいる以下の三曲だ。

 動画三つの下にながながとした眞邇摩流解説がついているが、読みにくいうえに的外れの可能性もあるので読まないでもよし。しかし動画の曲はぜひ聴いて行ってもらいたい。あわよくばYouTubeへ行っていいね!を押していただきたい。ダイマ。いや、カンザキイオリ氏とはなにも関係ないんだけれども。

 

 とりあえず音楽というのは理屈抜きでまず聴くことが肝要であるので、YouTubeの動画を貼っていくこととする。ニコニコ動画はコメントがノイズになるので。

 

アダルトチルドレン

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愛があれば。

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君の神様になりたい。

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アダルトチルドレン三部作

 上にも書いたが、個人的に、勝手に上の三曲をアダルトチルドレン三部作と呼んでいる。曲調が~とかそういう音楽知識なことは語らない。そんな知識がないので。わたしは単に歌詞について語ろうと思う。それもへたくそなんだけど。

 

アダルトチルドレン

 最初の「アダルトチルドレン」は、カンザキイオリ氏いわく「家族愛の歌」。おそらくまだ無自覚、あるいは自覚初期のアダルトチルドレンを歌手として想定している。

 

 まず、アダルトチルドレンの「僕」は、いかに自分が努力したか、いかに愛に餓えているか、いかに「パパとママ」、「あなた」に愛されたいかをうたう。いじましいまでに愛を求める。薄っすらと恨み節さえ感じられるが、それさえ耐えるから愛してくれと必死に訴えてくる。

 

 そしてつぎに、うたわれないが結局愛されなかったのだろう「僕」の処世術と虚構の「僕」を作り上げたうえでの人間関係の構築、崩壊、じゃあどうすればいいんだという逆切れに近い怒りがうたわれる。この事態をまねいた「パパとママ」ではなく、化け物じみた自分自身に対する憤りをうたう。それでも、「助けてなんてただ迷惑だろ?」と他者に迷惑をかけまいとする、そうすることで他者に嫌われまいとするいじましい「僕」の姿が浮き上がってくる。

 

 そしてさらに、「僕」は「僕だって同じように愛のある家に生まれて」いれば、こんなことにはならなかったはずだと自分の歪みについて自覚し、さらには多くのアダルトチルドレンが大なり小なり抱えているだろう、理不尽で醜い攻撃衝動をとうとうあらわにしてしまう。

 「愛されてるくせに」

 「ずるいよ」

 ちなみに「ずるいよ」はRemixまえの「アダルトチルドレン」には入っていない。「ずるい」についてはあとの曲にも出てくるので詳しくは後述したい。

 

 最後の最後、「僕」は「パパとママ」から離れる決意をする。関係のない他者にあれだけの攻撃衝動をあらわにしながら、「パパとママ」に対しては幸福を願うようにしてこの歌は終わる。

 しかし、これは「僕」のやさしさをあらわしたものではない。「家族」、「家族愛」の呪いを表現したものだと思う。離れようとしている「僕」はおそらくまだ期待している。なにか奇跡が起こって、「パパとママ」がいつか、「あなたがわたしのすべて」だと言ってくれる日を待っているのだ。

 他人に対してだったら、もはや無駄だと「僕」も気づいただろう。しかし「家族」だから期待する。「パパとママ」だから可能性を信じる。これは家族愛の呪い、そのおそろしさをうたった歌だ。

 

愛があれば。

 この歌の「僕」はすでに自分が機能不全家族で幼少期を過ごしたアダルトチルドレンであることを自覚して、自己紹介までしている。「はじめまして、僕はアダルトチルドレンです」。そのまえには普通に憧れていたことや、進もうとするたびに過去が足を引くことを淡々とうたう。

 

 そして「もしも」がはじまる。「もしも僕が愛されたら」、もしも僕が愛されて育っていたならば、きっと友達ができた、やさしくなれた。でも、そんなことはもういまさらだと「僕」はうたう。「僕ら今は狂っても生きていかなくちゃ」、「未経験の愛でだれかを愛さなくちゃ」。前向きに聞こえるが、「狂っても生きていく」、「未経験の愛でだれかを愛す」、到底可能なこととは思われない。不可能なことをうたっている。

 

 つぎに「アダルトチルドレン」でも言葉は異なるがうたわれた「愛されたかっただけ」という言葉が出てくる。そして「心の傷を見ないふりをして大人になったよ」とうたう。「だからその手でそっと撫でてほしい、なんてあのころを思い出してる」、つまり、その手の持ち主はほかのだれでもない「アダルトチルドレン」で距離を置いたはずの「パパとママ」なのだ。「僕」はまだ「パパとママ」からの愛をあきらめきれていない。大人になったのに。だからこそ、「笑い飛ばしてくれよ」、「なんで僕らこのまま生まれちゃったんだろう」という自嘲が出てくる。

 

 そして二回目の「もしも僕が愛されたら」。ちゃんと笑顔にもなれた、挨拶もできたんだ。けれども、「僕」には、もしたったいまだれかに愛されたときに、なにを返せばいいのかわからない。だから「パパとママ」に訊く。どうやって返してあげればいいのか、と。これは「未経験の愛でだれかを愛さなくちゃ」が不可能であることを補強する。「僕」は愛をもらってさえ、それをどう返せばいいかわからないのだ。そんな「僕」が未経験の愛でだれかを愛することなど可能だろうか。

 

 もしも、もしもと、「そんなことはもういまさらじゃないか」ということを繰り返してきたこの歌で、「もしもばかりでつらくなっても今じゃそれなりに生きていける」という。「どこにでもよくいる青年になり腐った」、アダルトチルドレンは外見になにか現れるわけではないから、「凡人ってことで」=普通の人間ということでそういうことにしてほしい、したいけれども、「僕」の単純な殴られた傷が消えない、からそうはなれないと嘆く。

 

 ここで「消えない」の意味が反転する。「消えない愛ってやつで」なにもかもぎゅっと抱きしめてくれ、と願う。そしてまた「もしも」。しかし「僕」は「そんなこともういまさらだよ」と自分で切り捨てる。「僕ら今は全部全部忘れやしない後悔を抱えていかなくちゃ」、そして、「愛されてるやつがずるくってつらいけど」。

 「アダルトチルドレン」でも出てきた「ずるい」という言葉が出てくる。ずるいのは同じだ。「愛されてるくせに、ずるいよ」、「愛されてるやつがずるくってつらいけど。」たぶん、この部分に反発を覚える……健常者? 健全家庭で育った人間? はけっこういるのではないかな、と思う。ずるいというのはなかなかに強い言葉だ。「卑怯だ」というニュアンスが入っている。「なんでただ生まれて育っただけの自分らがずるいなんて責められなくちゃいけないんだ? 理不尽じゃないか?」、そうおもうかた、まったくそのとおり。理不尽だ。

 しかし、それを言うなら、アダルトチルドレンの「僕」が機能不全家庭に生まれたのもまた理不尽だ。だからといって非のない他人をずるい呼ばわりしていい法はないが、貧乏に生まれるか金持ちに生まれるか、見目好く生まれるか不細工に生まれるか、五体満足に生まれるか何らかの障害を持って生まれるか、そういった人間の力の届かないところで優劣が決まってしまう理不尽に、相手になんの非もないとわかっていても、どうしても「ずるい」と思ってしまうことがある。ゆるしてやってくれとも言わないし受け入れてやってくれともいえない。そういうやつもいるんだと憐れんでくれたらありがたいが、まあ勝手にひとを卑怯なように言うなと怒ってもいいと思う。

 

 そして最後。「僕ら今は傷跡と一緒に強く生きていかなくちゃ。」これがこの歌のすべてだと思う。狂っても生きるのではなく、未経験の愛でだれかを愛さなければならないのでもない。傷跡というどうしようもないものを抱えて、強く生きていかなければならない、というのがこの歌の結論なのだと思う。

 また、全体を見て、「僕」と「僕ら」が入り混じっているのもおもしろい。「アダルトチルドレン」ではあくまで「僕」、「自分」の歌だったものに、他者が入り込んできている。苦しんでいるのは「僕」だけでもなく「君」だけでもないという地味なメッセージなのだろうな、と受け止めている。

 

君の神様になりたい。

 これはもはや語るところがない。個人的三部作としたけれど、これはカンザキイオリ氏によるメタな歌だ。「アダルトチルドレン」が愛の歌で、「愛があれば。」が命の歌だろう、というなんとなくの推測ができるだけだ。

 カンザキイオリ氏はこの歌で、「君の神様になりたかった」「君も救いたかった」とうたい、実際にはだれも救えていない現実を振り返る。過去二曲はあくまで、共感を得たい、自分が救われたいがための歌に過ぎなかったと。

 わたし自身は、カンザキイオリ氏の歌がだれも救えなかったとは思わない。カンザキイオリ氏の歌で少なからず救われた人間もいると思う。ただ、この救うというのが厄介で、アダルトチルドレンなんていう厄介なものになった厄介者はひとを助けたがる。救いたがるのだ。完璧に。そうやって自己肯定の糧にしようとする。しかし、不特定多数からの感謝の言葉なんて届かない。それでは埋めようがない。もっと近い関係の、深い理解のうえにしか、アダルトチルドレンの愛の餓えをいやすすべはないのだろうと思うし、そんなものを手に入れられるのは健常者にだって少ないだろうと思う。

 

 わたしは、このアダルトチルドレン三部作の救われていないようで救われていて、救われているようで救われていないような微妙なところが好きだ。希望もある、絶望もある。かならず助かるとは言わない、絶対に助からないとも言わない。そのあいまいさがやさしいと思う。

 というわけで今回、われこそはアダルトチルドレンだと自負するものに聴いてもらいたいこの三部作を拙くも紹介した。なにかの参考にはならないだろうが、ここまで読んでくれた諸氏には感謝をささげたい。

 

 以上。