うつでなまぽ

うつ病で生活保護受給者中の生きものがいろいろ書きます。

昔の話「父のよかったところさがし」

 おととい、ちょっと用事で出かけたせいか、きのうはずいぶんぐったりしていて、雨が降ってだるかったのも手伝い、ブログを書かずじまいだった。もったいないことをした。なんでもいいから毎日なにかしら書こうと思っていたんだが。

 

 さて、きょうは父のよかったところさがしをしてみようと思う。表題のように。父は、このブログでいろいろと書いてきたように人間性がどうかしている男ではあるのだが、それでもいいところというのはあった。完全なクズとはさすがにいないものだ。連続殺人犯も、子どもは殺さないという良心があったりする。まあそんな感じで、父にもよかったところはあったのだ。というわけで列挙してみようと思う。

 

仕事をしていた

 子どもを虐待する親というと、酒飲みで、教養もなく、仕事もろくにしていないような人間……と思うひとが多いかもしれない。実際、ニュースになるのはそういう人が多い。なんとかかんとか(20)無職とか。フリーターとか。

 しかし父は違った。ちゃんと仕事をして金を稼いでいた。記憶にあるかぎり、実家で暮らしているとき、金に困ったということはない。記憶にないときもそうだろうと思う。まえにも書いたと思うが、父は公務員だった。県庁に勤めていたから上級? とかにあたるのだろうか? よくわからないけど。

 大学に行くとき、奨学金をもらうために、父の源泉徴収票を見た。記憶違いかもしれないが、たしか800万円くらいあった。一生この年収を越えることはないだろうなと思ったのを覚えている。

 というわけで、父のいいところ。仕事をし、金を稼いで、妻子を養っていたこと。頻繁に「だれの金で飯を食ってると思ってるんだ」と言うタイプの男でもあったが、それでも金の管理は母に任せ、妙な宗教に突っ込むことも黙認している。経済DVをする男でもなかった。この点では、よい父だったと思う。

 

酒乱ではなかった

 父は酒が好きだったが、酒を飲んで暴れるということはついぞなかったように思う。どちらかというと、機嫌がよくなって、家族に絡み、鬱陶しがられる酔いかたをしていた。まあ、酔っぱらいはするが、おおむね酒量はわきまえており、手に負えないほど泥酔するということもほとんどなかった。これも一般的な虐待者像とはかけ離れていると思うが、知るかぎりでは、父は正気のとき以外、ひとに暴力をふるうことはなかった。さすがに過去は知らないが。いや、暴力をふるう時点で正気を失っているといえばそうなんだが……まあそれは置いておくとして。

 父が手を付けられないほど泥酔したのは、記憶にあるかぎりではおそらく二回ほどだったと思う。

 

 一度めは、どうやって帰ってきたのかわからないほどべろべろになり、靴も脱げずに玄関で転がった。たぶんあたたかい季節だったと思う。どういうわけだか知らないが、そのへんに唾を吐き散らし、枕がほしい、枕がほしいとしきりに言うので、押入れから父の枕を引っ張り出して持って行ってやると、「ぼくのまぁ~くら~♡」などと言っていとおしそうに抱きしめていた。通常のときの父の一人称は俺であったことを付記しておく。

 父は身長160cmくらいだが、そこそこがたいがよく、家にいる母や子ども(小学生、幼児)たちがらくらく動かせるという重量ではなかった。がんばれば可能だったと思うが、玄関でやけにしあわせそうに枕を抱えてもにょもにょ言っている父の姿は、がんばる気力を削ぐのにじゅうぶんだった。なので母が「きょうは外でごはんを食べようね」と言い、父をのぞく家族みんなで、玄関にいる父をまたいで回転ずしに行った。母が父に「みんな出かけるからね」と言い、父がうん、うん、とよくわかっていないだろうにうなずいていた。そしてすしをたらふく食べて(おそらく)家に帰ると、玄関に父はおらず、吐き散らされた唾がどうなっていたかは忘れたが、父はそこそこ正気でリビングにいた……ような気がする。このあたりはあいまいだ。和室で寝ていたかもしれない。とにかく玄関にはいなかった。

 

 二度めも、やはりどうやって帰ってきたのかわからないほどべろべろに酔っぱらい、玄関で力尽きた。しかし、前回と違ったのはどんどん父が冷たくなっていくということだった。父の手はでかく、通常あたたかかったのだが、どんどん冷えていく。これはヤバい。小学三年生くらいだったと思うが、父が命の危機に瀕しているのでは? と感じた。たしか寒い季節だった。玄関と廊下は寒く、意識はもうろうとしていて、顔もどんどん冷たくなっている。完全にヤバい。

 とりあえず母のところへ行き、「父が冷たくなっててヤバい」ということを伝えたのだが、母は「放っとけばいいよ」と言った。なんとなく、父が死んでもいいんだな、と感じた。母もずっとまえから殴られていたということを知っていたし、怒鳴られるのをよく見ていた。というかこのころすでに虐待は始まっていて、殴られたりするのはよくあることだった。なので母の言葉に従い、放っておくこともできた。姉と妹は興味なさそうにしていた。のちのち、母が父を死んでもいいと思った(かもしれない)ことで、父を死んでもいいと思った母、母に死んでもいいと思わせた父のあいだになぜ生まれてしまったのかということで腹立たしく思うことになるのだが、それはここでは関係ない。

 しかしながら、冷たくなっていく父の靴を脱がせ、背広の襟を無理やり引っ張り、多少はあたたかい和室まで引きずって行った。重かったかどうかは憶えていない。和室では母と妹も寝るので、邪魔にならないよう奥のほうまで引っ張っていき、押入れから毛布と掛け布団を引っ張り出してかけた。枕も出したかもしれない。敷布団はそのうえに父を引きずり上げられる気がしなかったのでやめた。手をさすったりしながら、「お父さん、お父さん」と声をかけた。やがて父はやや目を覚まし、水がほしいというので汲んできてやった。そうするとだんだん酔いがさめてきたのか、トイレに行きたいと言ったので立つのと歩くのを手伝った。そのさきはさすがに手伝わなかったというか父も手伝わせなかった。そのあいだに母のぶん、妹のぶん、父のぶんの敷布団を敷いた。

 父はトイレから出てふらふらしながら洗面所へ行き、手を洗い、顔を洗って、水を飲んで、まだぼうっとしているようだった。背広とズボンを脱ぎたそうだったので手伝い、シャツまで脱がせて、できるだけあたたかそうな寝間着を着るのをこれもまた手伝った。と思う。たぶん。たしかなのは父に「お父さん、もう寝て」と言って和室に連れて行き、布団に寝かせたことだ。掛け布団と毛布にくるまり、父はさっさと眠った。手や首に触れるともうあたたかかったので、大丈夫だと思い、胸をなでおろした。

 翌朝、母が「眞邇摩が全部世話してやってた」という話をして、父はちょっと恥ずかしそうに「すまんかったな」と言った。「もう次は世話せんけんな、あがん飲まんでや」とか言ったように思う。それを守ったのかどうか知らないが、それ以後玄関で倒れるほど飲んだ父を見た記憶はない。

 ただの思い出話になった。

 しかもこの数年後には眞邇摩さん、「あのとき見捨てておけばよかった」と思うんだから、救いようがない話になる。しかし、そうして死んでしまった場合には、あれか、保護責任者遺棄致死ということになるのだろうか。母が。そしたらいっぺんに孤児になれたのだろうか。なれたっていうのもおかしいが。

 まあ、父は酒乱ではなかった。これが長々しくなったこの項の主題である。

 

箸の持ち方を正しく教えてくれた

 なんかスケールが小さくなったが、重要なことだ。父は箸の持ちかたに一家言あり、いわく、箸の持ちかたの悪いのはみっともなく恥ずかしいことである、よって子には正しい箸の持ちかたを教え込む、という感じだった。とくに厳しくされたという記憶はない。箸の持ちかたくんとかいうのを買ったのは母だったが、父が「こう持ってこう持ってこう! そしてこうやってものをつまむ!」と教え込んだ。おかげで、ただしい箸の持ちかたをマスターしており、箸をきちんと持つことができる。

 ただ、ふしぎなことに、父からの遺伝か姉は左利きだったのだが、右利きに矯正したりしなかったりと微妙な対応をしており、おかげで姉はこれは右利きだけどこれは左利き、これは両利きと言ったような微妙な感じに仕上がった。箸については完全に左利きであった。おかげで、外食したときに、この場合左右どっちに座るか? というのを瞬時に判断する能力が互いに身についたが、ともに食事をしなくなってからはさび付いた。

 ちなみに、前述のように父は左利きだったそうだが、時代の違いもあり、「ぎっちょ」として徹底的に矯正を受けて完全に右利きになっていて、彼が左手をメインにつかってなにかをするところを見た記憶はない。

 

頭がよかった

 父は頭がよかった。昔っから頭がよかったらしく、父には弟がいるのだが、その叔父は「学校に行きはじめると、先生に、あの○○の弟か! と妙に期待され、その後がっかりされた。いつもそうだった、兄貴は頭がよかった」と語っていた。高校もいい高校に行き、大学も他の記事で書いた事情はあったものの、県内ではトップの大学に行った。

 その遺伝の恩恵を受け、眞邇摩もそこそこ頭がよい。この遺伝には感謝している。ある塾に通っていたのだが、そこへ妹が通いだすと、三者面談の際に「眞邇摩の妹さんですか! へえ~眞邇摩の! 眞邇摩はどうしてます? あの子頭よかったからですね~」みたいな話になり、妹の話はほとんどしなかったという、叔父の語ったエピソードまで遺伝したような感じになっている。姉にも「眞邇摩にはひとになにか教えるなんでできないでしょう。相手がわからないことが、どうしてわかんないの? って理解できないんじゃないの」などとほめられているのか貶されているのかわからん言葉をいただいている。まあ、実際、真に頭がよければそういうこともないと思うので、中途半端な頭のよさということだ。

 というわけで、父は頭がよかった。しかし、その頭のよさゆえにプライドが高く、間違いを意地でも認めないという欠点もあった。間違いを指摘すると怒るのだ。このへんに父との折り合いの悪さの理由を感じている。納得がいかないといつまでも反論をつづける生意気な子どもと、頭がよく間違いを認められない父親がぶつかったとき、悲劇が幕を開けたのかもしれない。

 いいところの話をしていたんじゃなかったか? とにかく父は頭がよく、その性質を遺伝させてくれた。そのことに感謝している。そうでなければ、顔もよくなく頭もよくなく性格もよくなく……という最悪な人間にしかなりようがなかったからだ。

 

外面がよかった

 いやこれよかった言うとるだけで悪口やんと思うかもしれん。しかしこうとしか言いようがないんや! 許せサスケ! 父はとにかく外面がよかった。なんか……よかった。というか……ひとに自分をよく見せよう、という気持ちが見て取れた。しかし父の声がクッソでかいうえ押しつけがましいので、迷惑しているような相手もおり、それを見ながら申しわけなく思ったりしていた……て完全に悪口やん。許せサスケこれが最後だ!

 父はひとが面倒くさがってやらないだろうと思われる町内会長~とか子ども会会長~というものをやたらにやっていた。家庭はぼろぼろ、自分の子どもたちはみな不登校やら自傷やら中退やらで腐っているなか、子ども会会長。やっぱ悪口やないかい。

 

 

 なんかもう思い浮かばない。殴っているとき以外は、あるいは姉や妹には、そこそこよい父であったように思う……が子どもを殴る姿を見せるのがよい父かと言われるとなんかもう勘弁してくれ。とにかく父にもきちんと働き妻子を養う、酒乱でも喫煙者でもギャンブル依存症でもない(母がいうには昔はたばことパチンコをやっていたらしいが、母が姉を妊娠したのを機にスッパリやめたそうだ)、最悪の父親像とはやや離れた人物であったことはここに書き残しておきたい。いちおう。

 以上だ。解散!