うつでなまぽ

うつ病で生活保護受給者中の生きものがいろいろ書きます。

治療「自分がいったいなにをすべきかについて考えてみる」

 前回の精神科受診で主治医に言われたことを考えてみる。両親にこだわりすぎているのはたしかだ。間違いない。父や母や姉や妹が抱える問題からは目をそらして耳をふさいで考えないようにしているが、両親と自分の関係については考えつづけている。

 なぜかというと、ひとつ思い込みがあるなと気づいた。人生に関することだ。両親との問題を片付けなければ、一歩もまえに進めないような気がしていた。だから両親との関係を考えて考えて考えて、なんで生まれてしまったんだろうというところまで考えるようになってしまっていた。

 永遠に放っておくことはできないかもしれない。でも、先生は「いったん置いておこう」と言った。いったんべつのところに置いて、自分のことを、自分のことだけを考えることはできるはずだ。自分になにができるのか。自分がなにをしたいのか。

 

 幸い、パソコンに慣れていて、ある程度はWordとExcelもつかえる。タッチタイピングも指がでたらめだがそこそこ早い。これができることだ。あと、手先は比較的器用なほうだから内職みたいなこともできるだろう。四大卒やでワシはというプライドもないので単純作業も苦にならない。地方私大出身だし。母校愛はあるが、プライドというほどでもない。

 

 したいこと……これがむずかしい。ばかばかしく聞こえるかもしれないが、勉強が好きだ。勉強がしたい。子どものころから、ずっと、勉強がとても好きなのだ。知識をひとつひとつ深めて、あるところでべつの知識とつながる、この体験は計り知れなく気分がいい。理科と日本史世界史が好きだった。

 大学に入り、学んだ生化学はもう、感動のひと言と言っていい。解糖系からTCAサイクルに入り、アデノシン三リン酸(ATP)を生み出していく。それがβ酸化につながり、グルクロン酸回路につながり、グルクロン酸抱合だとか、アンモニア代謝する尿素サイクル、すべてが十全に働いて健康にひとは生きることができる。ビタミンB群などは補酵素として使われ、不足すると回路がまわらなくなり、からだに異常があらわれてくる。すべてつながっているのだ。すべて。最高だ。ひとつのいのちのなかに生きるための機構がこれだけ緻密に詰め込まれている。すばらしい。これを知るためだけにでも、大学に行った甲斐があった。

 つぎに感動したのは、試料中に含まれるたんぱく質を測定する方法、ケルダール法というやつだ。いろいろなガラス実験器具を組み合わせ、ここで加熱、ここで蒸留、ここで滴定(実験で得られた濃度未知の溶液を、濃度既知の溶液で中和して濃度未知の溶液の濃度を計る方法)、すばらしかった。語彙がない。試料は多くあるが、たんぱく質のみが窒素という物質を含んでいる。そのため、たんぱく質量を知りたい試料の窒素を測定できれば、おのずとみちびきだすことができるというわけだ。そのために試料を濃硫酸で加熱処理して硫酸アンモニウムとし、そこに水酸化ナトリウムを加えてアルカリ性とすることでアンモニアを遊離させ、ホウ酸溶液で捕集する。で、逆滴定によってアンモニア量を得たら、あとは計算で窒素量を出し、たんぱく質量を算出するのだ。いろいろはぶいたしうろ覚えでもあるが、こんな感じだ。すべてに意味がある。すばらしい。

 しかも、大学在学当時にちょうど中国で薄めた牛乳にメラミンを混ぜてたんぱく質量をごまかすという事件が起こっていた。ケルダール法を逆手に取ったのだ。メラミン牛乳。なんとなく聞いたことがあるんじゃないだろうか。たぶんメラミンってなに? なんで牛乳に入れるの? 食べものなの? と思ったひともいたろうと思う。というか、当時の大家さんにそれを聞かれた。メラミンっていうのはどういうたんぱく質なのと。結論から言うとメラミンはたんぱく質ではない。窒素を多く含む窒素有機化合物で、メラミン樹脂の原料となる物質である。食べものでもない。しかし、窒素を多く含むために、牛乳を薄め、そこにメラミンを加えれば、ケルダール法による測定ではまるでたんぱく質がきちんと存在するかのような結果が出てしまうのだ。実験と現実がつながった瞬間で、実に興奮した。いや、事件だったのだからこういうのも不謹慎だが。

 

 まあ上記はともかくとして、いま勉強したいことというのが、すごくばかばかしいかもしれないが、宇宙のことと、博物学方面の鉱石、鉱物のことなのだ。いまさらやっても金にならない。そもそも博物学なんて金持ちか軍医のスティーブ・マチュリンの道楽だ(偏見)。未来にもつながらない。なにしろもう30代だし、避けて生きてきただけあって知識の土台もない。こんなことやっていいんだろうか、生活保護の身で。そんな気分なんだ。そりゃそうだ。

 ひとの望むことをしたい。自分がなにかを望むのは、とてもおこがましくて不相応な気がしてしまう。そう考えてしまうときがある。どこかで、自分を肯定しきれない。否定されることに反発しながら、でもそうなのかもしれない、否定されることがただしいのかもしれないと思う。肯定されてうれしくても、おそろしくなってしまう。もしかしたらこのひとはべつの意味で言っているのかもしれないと思う。気をつかってるのかも。あまりに情けなくてかわいそうだから。気をつかわれるのを申しわけなく感じながら、保身のためにひとの善意を踏みにじっている。そうしながら、自分を受け入れてくれるひとの望みに反することに怯えている。あーだめだな。だめだ。

 

 とにかく、きょうはひさびさに活動してめちゃくちゃつかれた。つぎの通院までに図書館に行き、宇宙の本と博物学の本を読みあさってくることにする。ちょっとさわってみたらぜんぜんわからなくてあきらめきれるかもしれない。