うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

むかしのはなし「父母があやまったはなし」

 洗濯物は取り込んだ。昨夜のうちにな。そうしないとねむれないとわかっていたんだ。だからそうしたのだ。そしてきょうは雨が降っていた。いまはやんでいる。すこしさむい。寒、遠慮のない親戚のように居座っている。いや、実家に客が来ることなんて、ほとんどなかったけど。いま考えると、父母、友だちいなかったんだな、と思う。

 

 では表題の話をしよう。ことわっておくがだいぶ記憶が混乱しているので、どういう状況でなにを言ったか、相手がなにを言ったかも、正確に思い出せない。そういう意味では人生で最悪の記憶と言えるのかもしれない。こんな感じだったなというのを書くので、だいぶ勘違いもあれば、ウソもあれば、誇張もあれば、フェイクもある感じだと思ってほしい。

 

 まえに書いたか覚えていないが、通信制高校を卒業して、就職したいと思いながら、大学に行きたいとも思い、それが許されるものかわからないことを思い、そうすることで親の庇護下におさまり続けることを思った。自分の技量で、しかも高卒ではひとり暮らしできるだけの金が稼げる仕事につけるかわからないということでぐるぐるぐるぐる考えていた。死ぬほど考えた。

 

 父母は高校卒業してバイトの面接に行って落ちたりなんだりしているのを知ってはいたと思うが口を出しては来なかった。なにも言わなかった。なにごとも起きていない、うちの家風はここでも守られた。

 許容されているとは思わなかった。父にしろ母にしろ、いまは「我慢して、許してやっている」が、いずれ爆発して「おれが、わたしが、こんなにも我慢して、許してやっているというのに、おまえはそれをいいことにサボっている、怠慢だ」と言い出すのは目に見えていた。しかしどうしようもなかった。たぶんあのときもうつだったと思う。だれの目をみても話ができなかった。

 先に爆発したのは父で、部屋の扉を突然蹴り開けると、「おまえはこれからどうする気なのかなにも考えていない! 一生すねをかじって生きるつもりか!」と怒鳴った。そんなつもりはない。ほんとうはいますぐにでも家を出たかった。かなうなら死んででもそうしたかった。そうせずにいるのは死ぬことをゆるされる場所がなかったからだ。でも本音をすべては打ち明けたくなかった。それだけの価値を父に感じなかった。だからただ、「この数カ月、なにひとつ話し合うことすらしなかったのに、よくも何も考えてないと言えるものだなあ」的なことを言った。父はとりあえず興奮をおさめた。「自分が、ほんとうにここにいたいから、ここにいると思うか」と訪ねると、父はそのまま出て行った。それが秋ごろだったと思う。

 

 来春、大学に行くことを決めた。猛勉強して国公立を狙ってもよかったが、私立を選んだ。もう、幼いころからずっと、殴られ蹴られ罵られて育って、ゴミ箱のように扱われて、ここまで人生を破壊されたのだから、その慰謝料だと思おうと考えた。ふつうに育てれば適当な国公立に受かっていただろう勉強好きの子どもを、ここまで壊したのはおまえらじゃないか。将来親が金に困ったら? ざまあみろ、というだけじゃないか。だいたい母はクソ宗教に金を注ぎ込んでいるのだからそれに比べればまだましな投資といえる。配当はゼロだけど。

 条件は国家資格試験の受験資格が取れること。やりたいことなんて昔に捨てていたから、資格と四大卒の学歴さえ取れればどこでもよかった。そしてもうひとつ、県外であること。母がどうしてもというので県内も受けることにしたが、そっちに通う気はこれっぽっちもなかった。受験料のムダだが好きにしてくれと思った。どうせどっちも受かると受験するまえからわかっていた。たいへんレベルの低い大学だったので。受験勉強のなんと楽しかったことか。落ちるかもなどとはいちども思わなかった。合格通知を受け取ったとき、当然だとしか考えなかった。

 そうして迷わず県外の大学を選び、ひとり暮らしをはじめた。最初の一日だけ母がついてきて、ものすごく号泣したことを覚えている。不安だった。大学生活でもなく、あたらしい生活でもなく、あのひどい家を出たことがこわかった。二十年近く過ごしたあの地獄を出たことがおそろしかった。この感覚は説明できない。母はホームシックかなにかだと思い見当違いななぐさめを口にしていたが、はっきりとムダだった。地獄で育ったから、地獄の外で生きていけるのかわからなくて泣いていたのだ。

 

 しかし、母が去って生活しはじめると、すぐに不安は消えた。地獄の外にも世界はあるのだ。毎日が楽しい。自分でつくるごはんがおいしい。友だちなどできないだろうから、ぼっちの心がまえでいこう、と思っていた大学でもふつうに友だちができ、遊んだりした。勉強も楽しかった。ここでは、家に帰るときに、他人の機嫌を考えて、憂鬱にならなくていい。家には自分しかいない。だれの顔色をうかがう必要もない。大声に布団をかぶって耳をふさがなくていい。ふつうのひとは、家族とともに、こんな生活をしているんだろうか? いいなあ。ずるいなあ。でもしょうがないよなあ。そう思った。

 レベルの低い大学だったので、かんたんに「頭のいい学生」ということになり、教授からもそこそこ好かれた。とくにひねくれた感じの教授は古い本を読んでいた影響で妙に語彙が古く、理屈っぽく、皮肉っぽいところを気に入ってくれた……と思う。たぶん。わからんけど。

 

 そういうふうに人生がたのしいと感じはじめていたころ、急に母から連絡があった。こんど両親でたずねてくるという。母はたまに来ていて、まだ家族としてやり直せるかもしれないと思っていたあわれな己はそれを受け入れて、あくまで加害者としての自覚はない母の愚かさをゆるせるかもしれないと思っていた。だから、父とも、なにごともなかったように過ごせるのではないかと思い、了承した……のだと思う。たぶん。

 このときの己の愚かさを心底呪う。

 

 ここから記憶は断片的になる。母が来るときにはひとり住まいの家に泊まって行っていたが、父が来るならそれはムリだ。なので両親は宿を取っていた。なんかで有名な、古い宿だった。食事をいっしょにした。広い和室で、食事がおいしかったかは記憶にない、なにを食べたかも記憶にない、それなりに豪華だった……気がする。

 あのいやな衛生害虫が畳と畳の隙間に潜り込んでいくのを目撃し、あんなところにも入れるんだ……となかばあきれ、なかば感心したのを覚えている。食事の場所に出たので不愉快でもあった。しかしギャーギャー騒ぎ立てたくもないので黙っていた。

 

 そして宿泊する部屋に行き、……三人部屋だったか二人部屋だったかよく覚えていない。とにかく話が始まった。ものすごく簡単にいうと昔おまえにした虐待について謝罪をしたいということだった。突然の話に、は? となった。しかも、謝罪をしたいだけではなく、ゆるしてほしいらしい。もっと、は? となった。ものすごく気分が悪くなった。二十年……というか、じっさいは十五年かそこらになるか、そのあいだに与えられた痛み、不信感、傷、無力感、厭世観、奪われた勉学の機会に友人をつくり遊ぶ機会、素直に夢を追う心、人生のはじめの十五年、それだけのものをごっそり奪っておいて、わるかった、あやまるから、ゆるしてくれという。うちの家風はよく知っている。なにごともなかったことにすること。つまり、わるかった、あやまるから、なかったことにしてくれと言っている。人格形成においてどれだけ重要かわからない十五年間を、なかったことにしてくれと。残った傷や痛みはおまえでなんとかしていってくれ、もうおれたちはこうやって謝るのだからという(実際、いまうつになっていることについて、二年ほどまえ母ははっきりと「昔のことは父さんも謝ってくれたでしょう、終わったことだよ、忘れないとさきにすすめないんだよ」とていねいに説明してくれた。絶縁を決意した)。

 

 そのうえ愉快なことに、この謝罪旅行は両親の発案ですらないらしい。妹の発案だというのだ。妹を子どものころいじめていたんだが、妹はどうやら聖人に列せられるべき徳を持っているらしく、「昔、父さんがあいつにやってきたことは虐待だ、ちゃんと謝るべきことだ、そうしないでおいて何かあたらしく始めようなんてできるはずがない」と説教したそうだ。家族でもっとも年下の、当時まだ10代の妹に説教されてしぶしぶ謝りに来る40代後半の両親。しかも、妹は「わたしがこれを発案したことは、あいつには言わないでほしい、きっとプライドを傷つけてしまうから」という心遣いまで発揮していた。というのになぜ知っているかと言えば母がべらべらとしゃべったからだ。妹の心遣い、ムダに終わる。

 妹とは四つほど年が離れている。そのうえ、妹のことは正直バカだと思っていた。実際バカだった。勉強が嫌いだったのだ。無知に安住できるその精神性を軽蔑していた。単純に殴られない子どもであることも嫌いな理由だった。妹をいじめた記憶はたくさんある。ただ、妹が成長が早く背も高かったことで、小学校のときに「クラスでいちばん背が高い男子・女子の身長と体重」をみんなのまえで暴露されるというクソ教師の被害にあったときには心底腹が立った。なんの免罪符にもならないが。嫌いなのに腹は立つものだなと思ったのを覚えている。

 話を戻す。妹が嫌いだった。軽蔑していた。バカだと思っていた。実際バカだった。そいつに憐れまれていた。殴られているところを見られていた。殴られて泣いて泣いて惨めなところを見られていた。認識していなかったあたりまえのことにうちのめされた。あんなやつに憐れまれた、あんなやつにかわいそうだと思われた、あんなやつに。

 子どものころ、殴られるとき、いつも精神のどこかに「余裕ぶっている自分」をつくってやり過ごしていた。「子ども相手に何してるんだよこいつ」「あーあ、大人のくせに自分の感情も制御できない」「何歳離れてるかわかってる? バカじゃないの?」「ほうらまた出た「食わせてやってるんだぞ」! 「だれが稼いでると思ってるんだ」!」「おまえが気持ちよーくナマでセックスしたから生まれたんだよ、育てるのは義務なんだよ、いやなら避妊でも中絶でもしてろよバーカ」、そんな感じで。でもそれでみじめさをごまかせていたのは自分のなかだけだった。外から見れば、痛い痛いと泣きじゃくって、やめてと逃げて、それでも捕まって殴られて、みじめきわまりなかったのは間違いないのだ。それを突き付けられた。プライドが傷つくなんてなまやさしいものじゃなくて、自己尊厳の根幹を崩されたような気分だった。

 妹がそこまで考えたとは思わない。たぶん、妹は単に自分が介入したことが知れればプライドが傷つくはずだと単純に考えただけだろうと思う。でもその判断は的確だった。妹が発案して、しぶしぶ両親は謝りに来た。なにもなかったことにするために。うちのめされるにはじゅうぶんだった。

 

 自分がなんと叫んだのか覚えていない。たぶん、いまさらなにを言うんだとか、ものすごく罵ったと思う。なにがすべてを謝りたいだ、すべて覚えてすらいないだろうにとか。思い出しているいまも苦しい。なにを言ったか思い出せない。とにかく泣き叫んだ。せっかくぜんぶ忘れて生きていけると思ったのにわざわざ思い出させに来やがって、なんでこんな両親のもとに生まれてしまったんだろう、どうしてもっとべつの人生がなかったんだろう、無理、無理、なにもかも無理だと言って部屋を出ようとすると、両腕を母親がつかんできた。このことははっきり覚えている。おねがいだからと言われた。おねがいだからなんだ? おねがいだから、ゆるして、なかったことにして? おねがいだから話をきいて? そんなお願い、どうして聞いてやらなきゃならないんだ? 苦しいのも泣きたいのも被害者もこっちだ。なんで加害者のそっちが、謝罪が受け入れられないくらいのことで被害者のようにふるまってるんだ? 理解できない。振り払おうとしても必死につかんで離れない。みぞおちのあたりを狙って蹴って振り払った。父親は座ったまま動かなかった。

 

 そして宿を出て、一目散に家に帰った。ひとり住まいの部屋、だれもいない部屋、おそろしいほど安心感のある部屋。しばらくすると大家さん(親切)から電話がかかってきた。両親がかけてきたらしい。なんでもないですよーだいじょうぶですよーと言って切った。翌日、部屋にだれかが訪ねてきて、インターホンを鳴らした。何度も何度も。無視した。ポストに何かを突っ込まれた。ふたりぶんの足音が遠ざかり、消えて、だいぶたってから確認した。手紙のようだった。焼き捨てた。外のドアノブにかかっていたなにかもゴミ箱に捨てた。

 

 なにもなかった。きのうはだれもこなかった。きのうはどこへもいかなかった。だれともなにもはなさなかった。なにもなかった。なにもなかった。なにもなかった。

 

 だけど、それでもまだバカだった。家族がやり直せるかもしれないとまだどこかで信じていた。まあその話はまたこんどな。