うつでなまぽ

うつでなまぽな生活です。

こもごも「健康でない日々」

 めちゃめちゃ不健康でした。

 

 どのくらい不健康かというと、ひとくちでもなにか食べたり飲んだりすると吐くくらいに不健康。水分補給に水を飲んでも吐く、吐き気止めに梅干し食べても吐くしまつ。脱水で死ぬかなって思った。死にませんでした。生きてる。

 

 さすがにヤバいなと思って、医療券を出してもらって、内科にかかって、血を抜かれ、胃カメラ飲んだんだけど、なんもなし。というわけで胃ディスペプシアと名づけられました。なんか……内臓とか血液検査的に何の問題もないのに症状があるというやつにつける病名らしい。器質的じゃなく、機能的な何たらとかなんとか。

 あと胃カメラ飲むのうまいねって言われた。人生二度めですよ。一回めは中学生のときだった。あのころは若かった。

 

 吐いているあいだに薬がいろいろ変わって、セロクエルとか、ドグマチールとか飲んでいる。セロクエルはめっちゃ眠くなる。ドグマチールはいまのところとくに作用も副作用も感じない。もともと胃薬だそうです。胃には作用しているんだろうか。わからない。

 あ、胃薬としてモサプリドというのも飲んでいる。おかげか、吐くことはなくなった。よかった。吐くのなかなかつらいからね。

 

 まだ重いものが食べられなくて、ゼリーとかヨーグルトとかスープで生きている。体重が5kgばっかり減ってしまって、BMI16くらいになってしまったので、巻き返さないとこの夏に枯れ果ててしまいそうです。そのほうが社会のためか。いやいや。

こもごも「こまったぞ低血圧」

 困りました。

 どうやらなんらかの原因で血圧が下がったかなんかしたらしく、低血圧の諸症状が出てきてしまった。末端冷え性、起立性のめまい、あと動悸。フルコンボだどん。だるさ、不眠などもあり、さらにさらにコンボだどどん。

 もともと100/60くらいの低血圧だったんだけれども、なぜいまさら症状が出てきたのかは謎。追い打ちかな?

 

 はやいとこ血圧をあげてハッピーになりたいところなんだけれども、塩をザクザク食べて高血圧になっても仕方がない。ので、対処法を調べてみたところ。

 

 適度な運動。

 

 だるいって言ってるだろ。

 低血圧ってホントだるい。めんどくさいって意味のだるいじゃなくて身体的にだるい。めざめもよくないし、そもそもよく眠れもしないし、起き上がればめまいがするし、そんな状態で適度な運動なんて無理ゲーじゃない?

 でもしなきゃ治らないので、とりあえず、寝たままでもできる系の運動をしています。

 仰向けになってエア自転車こぎ~とか、まっすぐ足を延ばして上げ下げ~とか。

 

 あとはカフェインがキく! ときいたので、お茶を飲んでいる。

 

 はやく健康になりたい。

こもごも「オートミールはおいしい」

 最近オートミールにはまっている。

 日本語ではカラスムギとか燕麦(えんばく)とか呼ばれ、「人間さまの食べるものじゃねえや!」というあつかいだったらしい。まあ日本人にはコメがあったからね。

 

 オートミールのいいところは、加熱してもよしそのままでもよしというフレキシブルな食性。

 水分とともに加熱すると、ねちねちした濃度の高いおかゆみたいになる。牛乳か豆乳+砂糖であまいおかゆ、水かだし+みそで和風のおかゆになる。

 そのままで食べるときは、まあそのままといっても水分をかけるわけだけれども、豆乳か牛乳をかけてしばらく混ぜくってふやかすことで食べやすくなる。味はしない。しかしむちむちした歯ごたえがくせになる。おいしい。気分によっては、豆乳などをかけるまえにはちみつをたらして混ぜくり、ぽそぽそにすると、そこそこ食べられる味になる。とてもおいしい。

 

 栄養素としては食物繊維が豊富というほかとくにみるべき点はない。

 みんなも食べよう、オートミール

 ちなみにグラノーラオートミールをこんがりさせたものらしいぞ。

うつ「心臓を飼いならす」

 ウィンストン・チャーチルは、うつの発作について「黒い犬」と表現し、J・K・ローリングはみずからのうつ体験をもとに幸福を吸い取り絶望に変える「ディメンター」という怪物を作中に登場させたわけだけれども、それは自分のうつと距離を取るという意味で非常に効果的なこころみであったのではないか…などと思う。

 なんというか、うつのときの、不安、あせり、どうしようもない孤独感などを、自分と一体化させて考えていると、どうしても逃れようがない。やり過ごすといっても自分自身なのに、どうやって? という感じになってしまうだろう。

 だから、前述したふたりはふいに襲い来るものとして、飼いならしたり、撃退できるものとして自分のうつを擬人化…擬獣化? させたのだと思う。画期的だ。まねしたい。

 

 しかし、自分がどのようにうつを受け止めているかと考えたとき、ぱっと浮かんだのが「心臓」だった。心臓、からだのまんなかに不安やあせりのかたまりがあって、拍動ごとにせっせと全身へそれらをいきわたらせている。たまに、心臓を胸から取り出して断ち割れば、黒いどろどろがあふれだして、すっきりできるのではないか、などと考えたりする。これは希死念慮に入るのだろうか。

 心臓は、黒い犬やディメンターとちがって飼いならすことも撃退することもできないが、たぶん、この心臓をどうなだめ、どう付き合っていくかが己の人生の課題なのだろう。

こもごも「ふつうのひとになりたい」

 先日、友人たちと会う機会があった…というか、ありていにいうと友人の結婚式だった。

 披露宴は非常に豪華で、ごはんもおいしく、友人の結婚相手がとてもよいひとだろうことや、友人と会えたこともうれしく、なのにどうしてかうっすら哀しくなった。

 そのうっすらがすこしずつ積もっていって、結婚式の翌日になると、とにかく、涙が出てきてしようがなかった。

 しばらく、泣いて泣いて、ぐずぐずになりながら、理由がわかった。

 

 結婚式をするようなひとは、ふつうのひとだ。そこに出席するのも、またふつうのひとだ。そのふつうが死ぬほどうらやましかった。望まれて生まれて、愛し合う両親のもとで愛されて育って、ひとを愛するようになった。そういうプロセスを踏んだふつうのひとのことが、すごくうらやましくてものすごく哀しかったのだ。

 結婚というものじたいは、うらやましくなかった。それも哀しかった。結婚して、しあわせな家庭を築けると信じられない貧しい精神性の自分が非常に賤しく感じられた。だれかを真剣に好きになったこともないし、これからもそうならないだろうと思った。そんな自分がとても未熟で、救いようのない人間であるように感じた。

 

 ふつうに生まれて、ふつうに育って、ふつうに生きたかった。ふつうのひとにずっとなりたかった。子どものころ、父親に「おまえはひととは違う、特別って意味じゃないぞ、おまえは頭がおかしいんだ」って言われたときから、ずっとふつうになりたかった。

 でも、子どものころに言われたささいな言葉をいまだに心に傷みたいに持っていて、うつで、なまぽの自分は、もうふつうのひとにはなれそうもないので、とても哀しい。

 雨も降ってるし、今日はとても哀しい日だ。

こもごも「自衛隊体操をやってみたよ」

 ラジオ体操をやると、気分がやや明るくなることがわかった。からだを動かすことで、なんらかの作用があったのは、まちがいないだろう。

 ラジオ体操って偉大だな…などと思いつつ、ラジオ体操の由来などを調べてみようかとウィキペディアを見てみたところ、自衛隊体操なるものを見つけてしまった。なんじゃそら。

 ちょうどウィキペディアにページがあったので読んでみると、読んで字のごとし自衛隊でやっている体操らしい。ずいぶんとご大層じゃないか? しかも、自衛隊公式の参考動画がYouTubeにアップロードされている。

 これはやらねばなるまい。

 

www.youtube.com

 

 感想、ついていけない。

 ラジオ体操第一・第二がおよそ六分ちょっとで、自衛隊体操は五分足らずなのだけど、運動量は明らかに自衛隊体操が上。というか動きが複雑すぎる、ラジオ体操は基本ひとつの動きだけれども、自衛隊体操は基本ふたつの動きを組み合わせる、結果、ついていけない。

 しかしけっこうおもしろい動きが出てくるうえ、この自衛隊体操のお兄さんのしゃきしゃきした号令がけっこう気に入ったので、今後ラジオ体操ではなく自衛隊体操をやっていきたいと思う。

 ついていける範囲で。

うつ「経験を共有すべきかについて」

 主治医の先生から、自助グループに参加してみてはどうかというようなことを言われた。生きづらさを感じているひとびとがたがいに経験を話したりなんかいろいろして、なんとか生きづらさを解消しよう。というような感じの。

 

 知れば知るほど、自分に必要なことかもしれないと思う。いままで、子ども時代のいろいろなこと、つらかったことや苦しかったこと、自業自得でもあるけどしんどかったことを、だれにも話してこなかった。理由はいろいろある、とにかく、だれにも、話そうと思わなかった。

 話してどうにかなるわけじゃないし、話すことでなんというか、なんらかの配慮、行動なんかを求められていると思われるのがいやだった。「それで、それを話して、あなたはどうしてほしいの? どうなりたいの? どうしたいの?」と訊かれても、絶対答えられないし、そんなことなら、話さないほうがいいよな、と思っていた。どうしてほしいか、どうなりたいか、どうしたいか、どれもぜんぜんわからなかったこともある。

 

 あともうひとつ、だまって、だれにも知らせずに、自分だけのものにしておけば、自分の気持ちひとつで、なかったことにできるんじゃないかとたぶん考えていた。

 大学に進学するとき、地元で実家から通える大学にも合格したのに、無理やり他県の大学へ進学した。だれもなにも知らないところ、過去や家族を知らないところでなら、ぜんぜんちがう人間として生きていけるんじゃないかと思った。同じことを考えてるひとはけっこういると思う。別天地へ行って、だれも自分を知らないところでなら、っていうふうに。

 でもだめだった。友達や知り合ったひとに、必要なときにはいっしょうけんめい破綻しないようにうそをついた。ふつうじゃない家に育ったことを隠したかった。なかったことにしたかった。そうやってふつうの大学生になろうとしたけど、過去のことも家族のことも、友達が知らなくても、だれも知らなくても、自分が、いやになるほど知っていた。ので、失敗した。ぜんぜんちがう人間なんてなれっこなかった。

 

 それでも、いまでも、まだなんとかなるんじゃないか、過去を忘れて逃げ切って、気分良く、べつの人間として生きていけるんじゃないかと思っている。だから自助グループに行くことが必要だと思っていても、どうしても行けそうにない。他人に話して、共有してしまったら、過去が「じっさいにあったこと」になってしまう。いやおかしいよな。じっさいに「じっさいにあったこと」なのに。これは理屈じゃないんだ。

 

 こうして文章にしてしまうと、支離滅裂で、どうしようもない人間だということが浮き彫りになる。どうしようもない。どうしていいかわからないんじゃなくて、どうしていいかわかっているのにどうにもしない、したくないっていうんだから救いようがない。