うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

精神科受診「フラッシュバックとは何ぞや」

 最近よく実家の夢を見る。なにかおそろしいことがあるわけではなく、単に実家にいたころを思い出しているような夢だ。問題は、目が覚めても夢の感覚から抜け出し切らないところだ。

 わたしは実家にいたころ、玄関にちかい自室で、二段ベッドを解体した一段ベッドに寝ていたのだが、部屋を出ると廊下があり、向かいに姉の部屋とかトイレとかがあった。そう言う感覚がする。

 いま現在、わたしは実家の自室で寝ていて、姉の部屋には姉がいる。ダイニングには父母がいる。リビングには妹が寝そべっているだろう。そういう確信が去来する。いやいやおかしい。わたしの部屋はいまはワンルームだ。ひとり暮らしだ。わたしのほかにはだれもいない。理解しているのに、理解できない。わたしはすでに三十すぎた女なのだけど、親から逃れられない子どもであることを強く意識させられる。恐怖がわく。起き上がる。ああ、夢だったと気づく。

 

 以上のことを主治医に話してみたところ、「フラッシュバックが夢にでてきているんだね」ということだった。なるほど~。出てくるな。おかげで眠るのがイヤになりつつある。めざめるときにかならずイヤな思いをするとわかっているからだ。

 というわけでなんかよくわからんけど「フラッシュバックを抑える漢方」とか言うのを処方されることになった。そんな都合のいいものがあるの!? 四物湯というのと、けいしかしゃくやくとうとかいうやつ。なんだかドラえもんの道具でもだされたような気分になったが、よくわからんけど効果はあるらしい。ネット調べ。なんでもネットで調べる。でも機序はよくわかっておらず、どちらかというとけいしかしゃくやくとうとかいうののほうがフラッシュバック抑制に働いているのではないかな……? というあいまいな結論だった。

 このふたつを処方することを、神田川処方? 神田処方? とかそんな名前で呼ぶらしいが、いったいなにをおもってこのふたつを処方しようと思ったのか。べつのことで処方したらたまたまフラッシュバックがおさまったのか。謎が多い。よくわからない。

 とりあえず一週間飲んでみたがとくにいいことも悪いこともなかったので継続してみようということになった。さいわいまずくはない。うまくもないけど。どっちかおぼえてないけど、セロリみたいなにおいがするから、セロリがきらいだとつらいかもしれない。

 

 で、まあ、また受診したわけだけれども、どうにも精神がうまくない。フラッシュバックするし。フラッシュバックはフラッシュバックだけでもつらいものだが、精神が一気に過去につれもどされるので、そのあたりのことをバチバチ思い出してしまう。

 そうやって思い出して傷つく幼稚な自分がきらいだ。母には「そうやってぜんぶ母さんが悪いって言いたいのね」と言われてきた。父には「もうぜんぶ終わったことだろう」と言われてきた。どっちもちがうと言いたい。悪いって言いたいんじゃなくてわたしは傷ついたと言いたいだけだ。終わってなんかいない、わたしはいまもあのころを思い出して情けなく泣いてばかりいる。

 でも、父母の言葉はわたしにすっかりしみこんでいて、「悪意のないささいな言葉に傷つくのが悪い」「むかしのことを、気にしているのが悪い」「忘れればいいのに、忘れられないのが悪い」、そんな感じのことを考えている。

 主治医の先生は「あのときつらかったんだって認めてあげられるといいんだけどねえ」という。むずかしい。つらかったことはわたしがわるかったことで、単に自業自得のことを父や母のせいにしているとどこかで感じている気がする。わたしは最初からろくでなしとして生まれて、そのせいで苦しんだだけなのかもしれない。

 

 こういう人間にこそ神さまという存在が必要なのじゃないかと思うけど、宗教はたいてい父母を尊べと教えるんだな。ミッション系の学校に通ったので主の祈りをおぼえている。天にましますわれらの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、われらの日用の糧をきょうもあたえたまえ、われらに罪を犯すものをわれらがゆるす如く、われらの罪をも許したまえ、われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ、国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。そして十戒には汝の父母を敬えとある。相性が悪い。

 親は子どもから逃げられる。男親なんかとくにそうだろう。孕ませるだけ孕ませて逃げることができる。女親も身体的負担はものすごく大きいけれど、おろすなり産むなりすれば、忘れてしまえるひともいるだろう。

 でも子どもは親から逃げられない。子どもをもたない人間はいるが、親を持たない人間はいない。その存在から逃げられない。いなければ存在できなかったから。まあもういっそ存在したくなかったなという気持ちもなきにしもあらず。

 

 そういえば、ゴールデンカムイで読んだけど、アイヌ民族には「子(他人の子どもでも)をきちんと育て上げないと、死後にとむらいをして送ってくれるひとがいないから、天の国へいけない」という考えがあるらしい。こういう、子どもを大事にしなければならないという宗教的な考え? はあんまり見ない気がする。教えのなかに組み込まれているというのがあまりないような。わたしがものを知らないだけかもしれないが。

 

 話がズレにズレまくったけれども、以上。

 そう、なんかちょいちょいコメントとかスターをもらってありがたいです。読んでおります。ありがとうございます。

うつ「精神がアカンことになっている」

 前回の記事は「発達障害関係の記事やんけ~」と思ったのでカテゴリを変更しましま。しましま。

 

 精神がここのところまるっきりダメで、なにがダメなのかなんでダメなのかまったくわからないほどにダメ。とにかくダメ。ダメとしか言いようがない。ダメのほかにこの状態を言いあらわす言葉を知らない。ダメーッ! 精神がとにかく「状況! ダメです!」と訴えてくるので、こちらとしては「そうか、ダメか……」と瞑目して受け止めるしかない。

 

 セロクエル、というかクエチアピン(アメルのジェネリック)を12.5mg/日飲んではいるんだけれども、これが入眠剤以上の効果をもたらしてくれているのかよくわからない。精神系の薬物ってそういうところがある。効いているのかいないのかさっぱりわからない。血液検査でもわからないし体温を測ってもわからないしなにをしてもはっきりしたことはさっぱりわからない。

 でもジプレキサの再投与はおもしろいほど効いたんだよな。奏功ぶりがめざましいほどだった。鎮痛薬、解熱薬などとひきくらべても、人生において、あれほど「薬が効いてる!」と感じたことはない。なのに高プロラクチン血症、おまえがさ……ほんとうにさ……どうかと思うよ。

 まあそれとくらべると、クエチアピンは効いていないんだろうな。精神がアカンことになっているもんな。こう、焦燥感だとか、心臓がざわめくような感じ、拍動ごとに全身をめぐる不安感、皮膚一枚の内側が黒い水で満たされているような感覚、そういうのが消えないんだよ。精神がアカン。ヤバい。

 

 最近は「オランダに行ってコーヒーショップで大麻をキメてハッピーになりてえ……」みたいなことまで考えている。LSDとかMDMA(エクスタシーとか言われてるやつ)とかはもともと精神病の治療のために開発されたドラッグだったのに、持ち出されてパーティー用につかわれるようになって医療用も禁止されたんだって(ナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーをみただけの知識)。なんかPTSDに効果があるかもってことでアメリカで帰還兵用に研究がなされているそう。ジャンキーが乱用しなければ治療につかえたかもしれないのに。ジャンキーをにくむ。

発達障害「障害じゃなくて個性ではとか言われても」

 こないだ、ひとと話してたんだけど、というかチャットをしていたんだけど、そのときに、わたしがアスペルガー症候群だという話になって、相手のひとが、「まえから思ってるんですけど、それって障害なんですか? 個性じゃないのかな?」みたいなことを言ったんだよね。

 まぶしいーと思った。

 まぶしくない? あまりにまぶしい。まぶしい意見。まぶしすぎるなー。

 そのひとがまた、「そうやって医者がみんな病気にしてしまう」とか、「アインシュタインだってあきらかにアスペルガー障害でしょう」というようなことを言う。ひーまぶしい。目がつぶれる。つらい。

 

 わたしは発達障害の診断を受ける以前から、こういう意見には懐疑的なんだよ。なぜかというと、健常者が「有能な障害者」だけをひろいあげて、選別しているようにしか思えないから。そうすることで、障害がもたらす苦痛とか苦悩とかを無視して、「障害じゃない、あなたの個性だよ!」なんて言って、無能な障害者を追いつめているようにしか思えないんだよね。

 だってさ、健常者、定型発達者の天才や有能なひとなんてごまんといるでしょ。だからって、健常者、定型発達者がみんな天才や有能なひとになるか? っていうと、ならないよね、当然。凡才や無能なひとは、天才や有能なひとよりたくさんいる。凡才や無能なひとは、健常者、定型発達者であるというだけで、天才や有能なひとをあたりまえの基準とされたらキッツい。障害者だって当然そうなんだよ。

 

 たぶん、こういう意見を言うひとは、差別してるなんて思ってないんだろうし、むしろ、「自分はほかのひとより差別してない」気でいると思うけど、いやいや、むっちゃ差別でしょ、と思う。障害を個性と言いかえるって、そうとう障害者に対する差別意識、障害者って呼ばれるなんてかわいそう、って意識がないとやんないじゃん。おなじような差別意識があるひとは喜ぶかも。そうなんです、私は障害者なんて呼ばれるような人間じゃないんです、って。

 まあ、ノーマライゼーションが進めば、障害者にとっての障害がなくなって、障害者という言葉が死語になるみたいな意見があるにはあるけど、身体障害にかぎっても世界じゅうがそうなるなんて無理だと思うし、精神障害発達障害にいたってはもう完全に無理と断言できる。話がそれた。

 

 わたしは、ずっとずっとずーっとどこかひととの関わりが下手で、がんばってがんばってもみんなとどこか違って、どんなにやっても変わってるねって言われて、それがとても苦しかった。なので、発達障害アスペルガー症候群ですね、って診断されたとき、だからだったんだ、って思えてうれしかった。うれしかったというと語弊があるかな。安堵した? よくわかんないけど、とにかく、わたしの努力不足とかそういうのじゃなくて、わたしはそういう能力がもともとなかったんだ、っていうのがわかって、まあ無駄な努力ばっかしてたなって哀しい思いもあったけど、わたしが悪かったわけじゃないんだ、障害のせいだったんだな、って思えて安心した。よかったなーって。

 なにも解決していないけど、わたしにそういう障害があるってわかることで、だからだったんだって納得できるし、しかたがないとあきらめられる部分がある。すくなくとも、これから無駄な努力はせずにすむ。無駄な努力をして、それでもできないことに対して「なんでできないんだろう、わたしがふがいないからだ」って落ち込まずにすむ。

 

 というわけでわたしは障害を個性と言いかえられて障害者じゃなくなるより、ふつうに障害者でいたいと思うね。

 

 ちなみに、その相手のかたは、わたしが「わたしは、そういうふうに障害だと言われることで、努力不足でできないと思っていたことが、障害があるからできないんだとわかり、安心できた」という話をしたら、納得してくださったので、よかったです。

 というわけで、とりあえずは、ハッピーエンド。

治療「セロクエルに帰還する」

 無月経まであらわれだしたので、オランザピン(ジプレキサ)は中止。セロクエルに変更になった。オランザピン、とても調子がよかったのに。わたしは自分のリプロダクティブな機能についてはつかう気がまったくないので、無月経でも問題ないのだけども、高プロラクチン血症を放置すると不妊のほか骨粗鬆症の危険があるので仕方がない。無月経不妊はべつにむしろわずらわしくなくていい、でも骨粗鬆症は困る。骨折はしたくない。というわけで中止だ中止。

 

 で、以前使用していたセロクエル、というかクエチアピンにもどる。中止した理由は「寝起きがだるい」、「ずっと眠い」というものだったので、高プロラクチン血症よりマシやろ! という判断。で、飲んでいるわけだけれども、やっぱり眠い。よく眠れるのはいいが、寝起きが悪くてずっと眠いのは参る。なにもできん。頭がぼうっとするし。オランザピンを中止したので、明るい気分とか、意欲とかもなくなってしまっていて、とても憂鬱な感じ。錠剤をみていると、こんな小さいものに左右される人生って……みたいな気分になってくる。

 

 なんだか、死にたいような変な気分で、なんども頭のなかでシミュレーションしては、「でも、死体が残るのがなあ」という事実に落胆する、ということをくりかえしている。すべての痕跡を残さず死ねるならなあと思っているひとはきっとたくさんいるんだろうな。そうできないから仕方なく生きているという感じ。

 ついでに両親をころしてしまいたいような変な気分でもある。これもなんども頭のなかでシミュレーションする。でも、両親が妹にとっても親であって、姪や甥にとっては祖父母であることに躊躇するんだ。しかしまあ、いまさら両親をやってしまったところで、もうなにもかも遅いことだけはまちがいない。なんの意味もない。だからやらない。なにも起こらない。平和だ。

 

 もう大好きな桃の季節も去ったようなので、そろそろ涼しさがやってきてほしいね。暑いのにはうんざりだよ。

うつ「ただしさなんぞ知ったことかという気分」

 ジプレキサ(オランザピン)の影響か、また乳汁分泌の憂き目にあったわけですけど~? 現在は血液検査中でまだ中止にはなっていない。いいのか。飲むけど。なんでこう副作用が出やすいのだろうと思うが、クリニックにあったアスペルガー障害に関しての本に、脳のホルモンがどうこうでアスペルガー障害者は薬の副作用が出やすいらしい……というような情報があった。まあ原因がわかったところで取り除きようがない以上、薬の副作用が出たら、薬やめるしかないんだけどな。薬によっては副作用対策の薬もあったりするけれども。なんにしろ、すべては血液検査の結果しだい。

 

 で、ジプレキサのおかげでハッピーなあいだに書いておきたい。なんでわたしがこんなことをしなきゃならないんだと。喉もと過ぎれば熱さを忘れるというか、いま、精神的にだいぶよいので、悪いときの必死さが抜けてしまっていて、そういうことを考える。なんか……薬を飲んだり、忘れたい過去とそのうち向き合って折り合いをつけなきゃいけなかったり、これからも苦労して生きていかなきゃいかんのだろうなということもふくめて、なんでわたしがそれをしなければいけないんだと。

 だれのためでもない、自分のためだとわかってはいるが、そもそもの負債はわたしのせいじゃない。ずっとだれかが(はっきり言えば親が)背負わせてきた借金を返済しながら生きているような気分だ。ふつうの親のもとに生まれていれば、プラスができているはずなのに、わたしはこの年でようやくゼロのスタートラインに立つことになる。なんでそんな、マイナスからゼロに至るためにわたしが努力しなくちゃいけないんだ。わたしのせいじゃないのに。いや、でも、わたしのせいだったのかも。なんとかしようがあったのかも。そもそも、わたしが育てにくい子どもだったのがよくなかった。わたしが親を追いつめた。この人生の負債は自業自得だ。生まれてこなければよかったのに生まれてきてしまった。そんな人生のために、これ以上なにか力をそそぐ必要があるか。いっそ消えてしまうのがいちばん楽なのじゃないのか。

 

 と、思っている。ひらたくいえば、いちばんひどいとき、ただ回復のことだけしか考えなかったものが、やや回復してきて余裕が出てきたら、よけいなことを考えられるようになってしまった、回復期がいちばんあぶねえってやつだ。

 しかし、うつ病とか、PTSDとか、アダルトチルドレンとかのひとは考えないんだろうか。考えても言わないだけだろうか。言っても仕方ないもんな。なんでこの傷をなおすためにわたしが努力しなければならないんだとか言ってても、なにも変わらないもんな。ばかみたいだもんな。はあ。

生活保護「あたらしい相談員さんが着任したが無理」

 むりむりむりむりかたつむり。

 あ、まえの記事の件ですが躁うつ病うつ病もふくむ)、統合失調症てんかんなどの持病がある場合猟師免許はとれないそうだ。うつ病寛解した場合はどうなるんだろうと気になるが、それをきくためには主治医に「わたし、猟師になりたいんですけど」とちょっと微妙な告白をせねばならない。してみようか。どうしようかな。

 まあそれはおいておくとして、今回の話。

 

 あたらしい相談員さんが着任されました。男性でした。無理。

 いや男性だから無理というのではない。しかし男性だというだけでわたしとしてはちょっとハードルが高くなったのも事実。二回ほど、前任の相談員退職後にピンチヒッターとしてきた女性のかた(臨床心理士の資格を持っているのかないのかよく知らないが、感じがよくて話しやすい)と面談をしていて、そのかたから、「わたしも同席するからいちど会ってみるのは?」ということで、会ってみた。まあ結論からいうとむりむりむりむりかたつむり。という感じだったということだ。

 

 なにがむりかというのを言語化するのはむずかしい。もしかしたら、男性であることでそもそも生理的にむりな気持ちがあり、それにあとから理屈付けをしているだけかもしれないからだ。しかし言語化しないことにはどうにも立ちゆかないこともある。自分と向き合うという意味も込めて、ここは言語化しておこうと思う。

 

 まず、その相談員さんが、ものすごくグイグイ来るタイプのひとだった。そういうタイプのが楽だというひともいるかもしれない。しかしわたしの場合、グイグイ来られれば来られるほど、ずりずりと後ろに引いてしまうタイプだ。それにくわえて、熱心さにこたえられないことに罪悪感がわいてしまう。こんなにもよくしてもらっているのに! みたいな。期待にこたえたい気持ちが強すぎるのだ。だれも罪悪感などいだいてもらいたいわけではなかろうにいだいてしまう。

 つぎに、ピンチヒッターの女性のかたにわたしが話した内容を、そのまんま持ち込んで「こんなことが好きなんですよね」とか「こんなことをしてらしたんですよね」と言ってきたところ。いや、情報が共有されているのはわかっている。しかし、わがままかもしれないが、それを意識させないでほしい。すくなくともいままでの相談員さんやケースワーカーさんは「共有して把握してはいるけど、口にはださず」という態度だった。ほかのひとにも共有されているというのがあからさまに出てくると、話がしにくい。それに、ピンチヒッターの女性のかただから話したことを、初対面のあなたが口にして持ち込んでくるのはなんか……ちがうだろうっていうか……うまく言えないけれども!! わがままだけれども!!!

 そして、「AにしますかBにしますか」なところ。たとえていうなら「カレーにしますかラーメンにしますか」みたいな。いや意味がわからないだろうな。まえの相談員さんとか、ピンチヒッターのかたは、まず「やるか、やらないか」というところからはじめて、やると決めたら「じゃあ、AとかBとかあるけど、どうしようか」という感じで話をすすめてきてくれたのだけれども、今回の相談員さんはもうはじめからやることはきまっていて、わたしがきめるのは「AかBか」というやりかたや手段の選択だけというような提示のしかたをしてくる。自分でも甘ったれていると思うが、わたしはこういう提示のされかたをすると、その時点で「やらない」「できない」という選択肢は捨ててしまう。捨てようと思って捨てるのではなくて、そんな選択肢はないと思い込んでしまうというか、ないと思っていることすら気付かない。AかB、どっちかを選ぶしかない、そういう視野狭窄に陥る。

 

 最初のふたつは話しているあいだにわたしが気付いたのだけれども、最後のひとつはピンチヒッターのかたが口をはさんでくれてはじめて気が付いた。わたしがAかBかの選択肢をえらんだあと、ピンチヒッターさんが、「あなたは、AかBかの選択肢をならべられると、どっちかを選ばなきゃと思ってしまうみたいだけど、Cという選択肢、つまりどっちもいやだという選択肢も持っていたほうがいい。やめる、逃げるという選択肢。これがいちばん大事」というような意味のことを言った。知らないうちにめちゃめちゃ緊張していたらしいわたしは泣いた。31歳なのに。関係ないか。

 

 で、まあ、今後新任の相談員さんと面談をつづけていくかどうかは、主治医とも相談して、担当のケースワーカーさんに話してくれればいいということで面談は終わった。

 まあむりむりむりむりかたつむりなんですけれども……、でも、そういう苦手なひとと付き合うスキルみたいなものをみがくのも大切なのかもしれないし……悪いひとではないんだし……うん……がんばってみるとか……いやがんばらないほうがいいんだろうか……とかいろいろ考えている。

 軟弱な精神であることよ。

 

 面談のあと、こころ乱れすぎてそのまま家路につくことができなかったので、図書館へ行った。図書館はいいところだ。古い本のあまい匂いが空間を満たし、人類の叡智とエゴと歴史と悪行と善行とくだらないたわごとがまぜこぜになって棚を満たしている。いろいろと本を借りた。クマのパディントンの原語版とか。いま読んでいるが、意外に読めるものだなと思っている。

 本はいいものだ。

発達障害「自分の苦手なことを考えてみる」

 発達障害、というか自閉症スペクトラム、というかアスペルガー障害の特徴に、いじめにあいやすい、虐待被害者になりやすいというのがある。つまりそれって、被害者側に原因があるということではないのか。父母もアスペルガー障害であるわたしさえいなければ、虐待などすることなく生きたのかもしれない。姉や妹も健全な家庭ですごせたのかもしれない。

 などと考えて落ち込んでいたが、まあ、考えたところでどうしようもないし、よく考えたら父はわたしが生まれるまえから母に暴力をふるっていたそうだから、そういうやつだったんだよな、と結論付けることにした。いじめは受けたことがない。家族以外の周囲の人間の好意をむさぼって生きてきた自覚がある。

 

 落ち込むだけ落ち込んで浮上したあと、昔のことを考えるにしろ自分を振り返るにしろ、もっと建設的なことを考えよう、と思って、自分の苦手なことを考えてみた。苦手がわかれば得意がわかる……ような気がする。苦手がわかればそれを避ける方法がわかる。……と思う。

 とりあえずまあ発達障害の症状(?)になるのかなというのを書いてみる。しかしべつにこれは発達障害じゃなくておまえの特性だよというのもあるかもしれん。わからん。なにもわからん。

 

 まず、人間が苦手だな。いきなり主語がデケエ。しかし真実だ。

 思うに、人間というのは情報過多だ。男とか女とか顔の感じ髪の感じ服装喋ること思っていること考えていること手の動かしかた表情歩行速度などなど。圧倒的情報過多。圧倒的情報過多に接してしまうと、その情報解析にリソースを食われてしまい、エネルギーを浪費して、結果、すごく疲れる。

 この感覚がよくわからん……というひとは、ざわざわと騒いでいる人込みのなかに入っていって、そのなかで、すべてのひとをひとりひとり見つめていきながら、すべての会話を聞き取ろうとしてほしい。頭がグラグラしてくると思う。そういう感じだ。そういう感じが、わたしは人間がそばにいるかぎり強弱の差はあれずっとあるのだ。

 よって、わたしは多数の人間が集まるような場所は苦手だし、疲れる。

 

 それなら一対一は大丈夫ということかとなるが、これもまた苦手だ。

 一対一になると、一対多数(正確にいうと対してはいなくて勝手に情報受信しているだけなのだが)よりも負担が少ないように思えるのだけれども、実際には会話というものすごくすごくすごくすごーく疲れる行為がともなうので、結果一対多数よりもずっとずっとずっとずーっと疲れる。会話というのはキャッチボールにたとえられる。かなり的を射ている。運動音痴のキャッチボールを想像してほしい。相手の球を取るので精いっぱい。受け取った球を解釈するのにまた精いっぱい。投げるときにも投げ方、相手の姿勢、この球でいいのかといっぱいいっぱい。そして相手がとれる球だったか、暴投してないか、ひやひやしながら見守る。

 疲れる。

 ただ、これは相手にもよる。通常、人間はというかそれなりに知識と教養をそなえたと自負するような人間は、言外にいつも含みを持っている。そういうのが疲れるのだ。こっちはボールを受け取るので精いっぱいなのに、相手のボールを投げる姿勢とかまで注視しなければならない。そうでなければ球を読み違える。変な球を投げてしまう。よって疲れる。

 しかし、子どもや歯に衣着せぬような物言いをするひとは、言葉がそのまんま言葉のまま。球をみながら球を受けて球を読んで返せばいい。楽。あんまり疲れない。

 よって、いわゆる「大人の会話」をする相手との一対一が苦手だということになる。

 

 ひとの眼を見ることも苦手だ。このあいだ、甥っ子に読んでほしいと言われた本を読んでいたら、「ありがとうは相手の目を見て言いましょう」というのがあって、アスペの子どもにとっては地獄のような提言だなと思った。相手の眼を見ないというのは、だいぶ不信を抱かせる、疑わしい、誠意の感じられない行為であるというのはわかっている。ので、いちおう瞬間的に視線を合わせてみたり、ごまかそうという努力はしている。しかし無理なものは無理。苦手なものは苦手。

 わたしの父はたいへんアスペっぽいのだが、「眼を見ればなんでもわかる」教信者でもあり、頻繁に「眼を見ろ」と言ってきた。そういうときぐらいしか、わたしが長時間だれかの眼を見ることはなかった。で、長時間相手の眼を見続けたときにどうなるかというと、まず、眼以外のすべてが消える。あとはハレーションする光が渦巻くようになり、だんだん視界が暗くなっていく。眼だけ切り取ったように光のなかに浮かび、グルグルと回るようなこともある。眼の奥が揺れるような感じがして、とても目を開けていられなくなる。ラリってるのかという感じだが、しらふでこうなる。高ストレスに対する防御反応なのかなんなのかはよくわからない。

 よって、わたしはひとの眼をみることが苦手だし、無理だ。

 

 あとは道具をつかってなにかをするのが苦手だ。球技とか、化粧とか。自分の手だけならばむしろ得意(折り紙とか)なのだが、あいだに道具がはさまると苦手になり無理に至る。じゃあ自分の体をつかうのは得意かというとそうでもなく、運動は全般的に苦手だ。逆上がりもできないし、縄跳びも二重とびあやとび交差とびができなかった。走るはまあまあふつう。泳げはする、クロールがまあまあ得意。

 

 こうしてみてみるとできる仕事なんてないのではという気分になってくる。ひとと接さない仕事なんてあるか。いや、ぜんぜん接さない仕事をさがす必要はないのだ、ある程度ひととかかわらずにすむ仕事であれば。すべての要求をみたす仕事などあるはずがないのだから。

 しかし、昔はマタギにあこがれて猟師になりたいと思っていた時期があった。これは究極にひとと接することのない仕事ではなかろうか。自分の特性を無意識に理解していたのかもしれない。道具をつかうけど。うまくやればアスペ垂涎の仕事となりえるかも? わたしは精神障害者だからもしかしたらもう銃を持つ許可はおりないかもしれないが、罠猟師くらいにならなれるだろうか。ちょっと調べてみたいが、こんど区の職員さんと会うときに、「猟師になりてえ!」とは言いたくないな。あ、区の職員さんに自分にあう仕事の傾向をさがしてみるといいかもと言われているんです。まあ今回自分の苦手なことを考えるのは、仕事をさがすためというより単に生きるためであったのだけれども、ここに着地した。わかんねーな。

 

 きょうはこれでおしまい。