うつでなまぽ

うつ病で生活保護受給者中の生きものがいろいろ書きます。

うつ「ひとをうらやみながら生きることについて」

 わたしはあまりひとをうらやんだりねたんだりしないほうだ。自分のことをそこそこ気に入っている。自己肯定感にはなぜかつながらないが、悪くはない人間だと思っている。すごく頭がいいというわけでもないし、うつくしさとはほど遠く、メンタルはぼろぼろで、なにか、これ! というとりえがあるでもない。楽器も弾けないし、歌も下手だし、手先もそう器用ではない。ひととのコミュニケーションは苦手で、作り笑顔ばかりがうまく、すぐに相手の思惑や裏を探りたがる。でも、まあ、こんなものだろう、と受け入れている。

 だから、わたしはわたしを、ひとをうらやんだりねたんだりしないほうだと思っていた。しかしちがった。わたしはうらやむこと、ねたむことから無意識に逃げていただけだった。

 

 友人の結婚式に出席したとき、新婦の父親が結婚式を見ることなく病で亡くなっていて、そのことについて新婦が両親への手紙にして読んだのを聞いた。みんな感動して、おなじ席の友人などは涙をこぼしていた。新婦の父親に対する愛が、そして新婦にそそがれた亡き父親からの、母親からの愛が目に見えるようだった。わたしはそれをどう消化していいのかわからなかった。どうやら、わたしはなにかを感じている。しかしそれはこの式にいるだれともちがう感情のようだ。なんだろう。なんだろう。

 式が終わり、ホテルで休んでいるときに、思い当たった。これは羨望と嫉妬だ。わたしは友人である新婦がうらやましくてねたましくてしょうがないのだ。愛ある家庭に生まれ育ち、父の死を哀しむことのできる友人が。自覚して、自分がおそろしくみじめに思えた。新婦が語ったのは自慢でもなんでもない。父の死と、結婚式に出席してもらえなかったことへの哀しみだった。それに対してわたしが感じたものが羨望と嫉妬だとは。

 うらやましい、ねたましいという感情はあまりにも残酷だ。ほしくてたまらなくて、けれど手に入れられなかったもの、これから先も永遠に手にすることのないものを、あまりにもくっきりと浮かびあがらせる。わたしは愛がほしかった。健全な家庭で生きたかった。しあわせな子ども時代をすごしたかった。でも、もう間に合わない。もう遅い。

 羨望と嫉妬は、いつも無意識がいっしょうけんめい押さえつけてくれていた。わたしにとってあまりにもストレス負荷が高い感情だからだろう。だから、わたしはひとをうらやんだりねたんだりしない人間だと勘違いしていられた。ずっと勘違いしていればよかった。ひとをうらやみながら、ねたみながら生きるのは疲れる。手に入らなかったものを意識しながら生きていくのは、ただでさえ困難な生きていくことを、よけいに困難にする。

 

 しかしながら、わたしはまたうらやましくてねたましいものに出会ってしまった。詳細は割愛する。わたしのあきらめた夢の世界のちかくで生きているひとと、わたしがあきらめた、父母に否定された道をすすむ子どもが、母親に肯定されている姿を見てしまった。わたしは父母に否定されたのに、彼らは肯定され、支援され、迷いなく進んで行っている。吐き気がする。はじめのうちはまたうらやみとねたみに気付かずに、このもやもやする感情はなんだろうといぶかっていた。気付かなければよかった。

 他人をうらやんだところでねたんだところでどうしようもないとは、先人が何度も言葉を重ねている。しかしそのどうしようもない感情をどう処理すればいいかまでは教えてくれない。

 果たして、わたしは、苦しいからうらやむのか、ねたむから苦しいのか。鶏卵の問題というやつかもしれない。けれど実際には鶏卵の問題など存在しない。鶏が先か卵が先かなどというのはじつにナンセンスな問いだ。卵から生まれる生物はいても、卵から発生する生物はいない。卵というのは生物が生殖と再生産という能力を獲得した結果、生まれてくるものだ。だから当然鶏が先だ。哺乳類で考えればもっとよくわかる。人間が先か妊婦が先か。人間に決まっている。だからこのわたしの問題も答えは決まっていて、苦しいのが先だ。愛のないこと、肯定されないことがこんなにも苦しく、つらいことでなければ、うらやみもねたみも生まれない。なんか自分で問題提起して自己解決している。

 

 とりあえず、いま、わたしはとても苦しい。

 これが上記のできごとによるのか、気圧の関係なのか、季節のせいなのか、処方の変更によるものなのか、まったく見当がつかないけれどとにかく苦しい。生きることは苦痛に満ちている。この苦痛は、いつかやわらぐものなのか、治療によって回復することで癒えるものなのか。それを確かめるまえにめげていろいろとあきらめてしまいたいような気分だ。

 

 外は曇天、いまにも雨粒がしたたり落ちてきそうな気圧のさがりよう。この湿気た曇天というのがいちばん嫌いだ、いっそ降るなら降ってくれ、という感じはわたしの人生に似ている。もうすこし打撃をくれたら、いさぎよく消えてやれるものを、最期の一撃だけがいつまでも来ない。

精神科受診「あらためてPTSDだと診断を受ける」

 受診してきました。PTSDでした。いや最初から言われていたけど。

 前回延期された心理検査、今回も受けられなかったのだけれども(それは事前にわかっていた)、とにかくその内容と、前々回? くらいに受けたペーパー式のアンケートみたいなやつとバウムテストを比較検討したうえで、これから診察にくわえてカウンセリングを受けていくべきかどうかを判断されるとのこと。

 いやしかし、カウンセリングと言うと、自費になる可能性があるからちょっときつい。いくらになるのかわからないし。保険診療の範囲内でカウンセリングが受けられる場合もあるそうだけれども、わたしがそれに該当するかどうかは不明。カウンセリングを受ける必要があると主治医に判断されたけれども、お金がもったいないからと受けなかった場合、生活保護受給者の義務である、「傷病者はその治癒につとめること」にひっかかって指導を受けることになったりするんだろうか。ちゃんと受けなさいよとかっつって。

 

 

 PTSDには「過緊張」というのがありがちらしいんだけれども、わたし、もろにそう。気質だとばかり思っていたけど。簡単にいうと、ちょっとした音や変化に過剰に反応する(ほどに、つねに緊張している)ことらしい。通常危険が想定されない状況下においてもずっと緊張状態をつづけているため、ふつうのひとなら聞き流すくらいのふいの物音などにものすごくおどろき、比喩ではなくとびあがることさえある。そしてわたしの場合、かならずその音源をさがす。なんとなくそうしないと気がすまない。たぶん、危険がないかを確認しないと「とりあえずは安全である」という確信が持てないから。

 突然の物音に反応しないひとびとがわたしは信じられなかった。えっいま音したじゃん? けっこう大きかったじゃん? みんな聞こえなかったの? 反応してるのわたしだけなんだけど? みたいなことがたびたびあった。なぜみんながそういうふいのできごとに対して鈍感でいられるのか、というか泰然としていられるのか、理由がわからなかった。

 答えはじつに簡単だった。みんな、その程度の物音が安全を脅かさないと理解しているから。わたしのような安全を信じられない者たちだけが、取るに足らない物音におびえてとびあがるのだ。きゅうりに気付いたねこみたいに。

 そんなふうに、歩く道の角という角に危険がひそんでいると想定しているかのようにして生きていれば、精神が疲弊する。人間は、というか動物も、常時あたりを警戒して生きていけるものではない。そうして精神を病む。わたしのようにうつ病になったりする。生きていくには安心と信頼が不可欠だ。しかしPTSD患者はかならずしも世界が安全でないことを知ってしまって、どこからどこまでが安全で危険なのか、境目がわからなくなってしまうのだと思う。わたしのような幼年からの虐待被害の場合、ほんとうの安心や信頼というものを、そもそも知らないのかもしれない。

 

 とりあえず、カウンセリングを受けるにしろ受けないにしろ、PTSD治療をはじめられるよう、あいまいなところも含めて、過去の記憶をたどれる程度まで体や精神を癒すことが目標になる……のだろうか。しかし、それをするためには、PTSDの治癒が必要なのではという、なんなんだろう、この堂々巡り感は。

 CATCH 22という言葉を、というかスラングをご存じだろうか。小説の題名なのだが、これは小説中の軍規をさす言葉でもあり、その軍規の内容は「狂気に陥ったものは軍を除隊できる」というものだ。しかし、「自分は狂人であります、狂気に陥ったものであります、ゆえに除隊をお許しいただきたくこうして参じたものであります」と己の狂気を自覚できる者はまだ狂気に陥っているとは言えない。理性が残っている。ゆえに除隊できない。かといって、狂気に陥った者は除隊を願い出るだけの理性がすでにない。ゆえに除隊できない。というやつだ。そんな感じだ。

 まあとにかく、次回の心理検査を受けて、判断を待つしかない。人事を尽くして天命を待つ。いやそんなもんでもないな。べつに学力テストでもないからな。なにもできることがないな。とりあえず、一日一回くらいはなにか食べるよう心がけるくらいだな。それでいいか。

 

 体重はいまのところ45kgくらい。来るべき夏に向けてダイエットにいそしんでいるお嬢さんがたも多いだろうに、こっちは体重を増やそうと腐心しているのだと思うとその落差にすこし笑えてくる。

 

生活保護「訪問の日でした」

 つかれた。なにもしていないのに。いつもひとりでいる部屋に、CWさんと相談員さんと、ふたり増えるだけでものすごい圧迫感がある。ここは人間の家ではない。けものの巣だ。だれかをむかえることを前提に準備がなされていない。座布団代わりにクッション出してるし。そしてなぜかいつもそれをほめる相談員さん。いや……こっちがひとをだめにするソファに座っているのに、相手方を床にじかに座らせるわけにはいかないという、わたしにかろうじてこびりついている社会性のようなものがそうさせるだけなのだ。かといって来客などほぼないにひとしいのに、訪問のためだけに座布団を買うのもな。どうなんだ。

 

 訪問ですることは、だいたい、現状報告とあとは書類記入。たぶんこれはどこも変わりないだろう。

 ただわたしは病気療養中であるので、現状報告はだいたい病状報告とイコールでつながる。主治医にこう言われましたとか現状こんなですとか処方が変更になりましたとかそんな感じのことを話す。今回の場合は睡眠に問題があったので処方の変更があったこと、食事量がかなり落ちているがなんとか体重は持ち直しつつあるような感じであること、とこの程度のことを話した。

 書類記入というのは仕送りとかなんとか、収入がありませんでしたよという申告をする書類だ。生活保護のしおりかなんかには自発的に記入するように? みたいなことが書いてあった気がするが、べつに何枚か渡されるわけでもない。収入があった場合に、きちんと自発的に申告するようにということだったのかな? とにかく、うちの区の場合は、訪問のときなどにCWさんが持ってきてくれるので、指示にしたがって当日の年月日と名前を書いて、収入ないよということをしめして、理由を書いて、捺印をする。印鑑ってむだだよな。むだの最たるものだと思うよ。まあそれはそれとして。

 

 食事については一日一回は食べてるのかというふうに訊かれたのでそういえば食べてないな……と気づいた。というか、なんかちゃんとしたもんば食べんとでけん(地元方言)と思う、思って、思い続けて、三日ぐらいそう思いつづけてやっと、食事にありつく。豚の餌のごとき雑炊をこしらえてみたり、パン屋でパンを買ってきたり、弁当屋で弁当を買ってきたりして、食べる。

 それまでの三日間は、水を飲んだり、牛乳を飲んだり、豆乳を飲んだり、てきとうに飴などなめたりしてすごす。それほど活動するわけではないので空腹感はすぐに薄れる。意外に平気だなと思ってくらっときたりふらっときたりするわけだけれども。

 

 空腹にはわりと慣れている。子どものころ、飯抜きという罰がよくあったからだ。たいがい、父が、「おれが働いて稼いだ金で飯が食えているということに対する感謝が足りない」と感じたときに発動する。父は公務員だが児童憲章を知らなかったようだ。

 食うなと言われるから食べない。空腹がために父に感謝をささげて飯を食わせていただくというのはどう考えても筋が通らない。わたしは父の子どもだ。父がつくった子どもだ。適宜避妊でも中絶でもしていれば存在しなかった命を、あえて存在させる選択をしたのは父だ。父がわたしを、成人するまで養育するのは義務であって、わたしが父に感謝するか否かとはまったくべつのことだ。

 そういう理屈を小学生ながらこねくり回して、給食だけで生きていた時期がある。少ない量を食べたほうが空腹との落差が少なくて体が楽だということ、水で腹を膨らませること、体育はむしろ動いたほうが楽なことを学んだ。

 結局最後には父が「なぜ食べないのか、当てつけのつもりか」とキレて殴ってきて、しかたがないので飯を食う生活に戻る。血と涙といっしょに食べたクリームシチューを覚えている。口のなかが裂けていて、ほくほくした甘いじゃがいもと酸っぱいような傷の味と鉄さびくさい血のにおいに涙と鼻水が混じっていた。はた目にはやっとありつけた食事に感謝しているように見えたかもしれないが、じっさいには意思を無視して無理やりにねじ込まれたことが悔しかった。

 父に感謝していないわけじゃなかった。むしろ負い目を感じるほど感謝していた。ただ、それをしめす方法をわたしは知らなかった。素直に「おとうさん、いつもはたらいてくれてありがとう」と言うには、父とわたしの関係はあまりにねじくれすぎていた。上記のことも、父としては、二三日程度飯を食わせずにおいて、空腹に耐えかねたわたしが反省し、謝るなりなんなりの行動を起こし、それを許してやり、いつもどおりに戻る、というふうにしたかったのだろう。わたしにもそれがわかっていた。わかっていたからこそしたくなかった。そういうふうに理不尽に、ひとに操られたくなかった。その程度の人間だと思われたくなかったし、自分をその程度の人間に貶めたくなかった。

 こうして書き出してみるとまあなんと相性の悪い父子だろう。父はひとの頭に足を乗せないと気がすまないところがあった。わたしは自分の意思に反して額づくことへの途方もない嫌悪があった。どうやってもうまくはいかない父子だったのだな。

 

 話が大いにそれた。とりあえず三日に一回という食事量はCWさんと相談員さんにはちょっと衝撃的な食事量だったらしく、お菓子でもなんでもいいから、とにかくすこしずつでも毎日一回は食べたほうがいいということを言われた。指導されたと書くべきか。基本的には相談員さんが話し、わたしが答えるというかたち。CWさんは男性で、わたしは過去に性被害の経験があるのでCWさんはだいぶ遠慮している感じだった。しかしなんだ、空気があまり明るくないときに、明るくしようとする努力をするひとに、とりあえず作り笑いを浮かべるときの気まずさよ。

 

 相談員さんは退職されるということなので、これでお別れ。そのことについてはどちらもとくにふれなかった。いままでお世話になりましたというべきだろうかと思ったが、結局なにも言わず。

 後任の相談員さんはまだ決まっていないとか。とりあえず、七月になってから確認をして、いちど会ってみて、これからも面談をつづけてゆくかやめるかを決めるということになった。当然のようにつぎの相談員さんも女性が着任することが前提のような話になっていたが、そういうものなのだろうか。

 CWさんはなんでも言ってもらってかまわないからというふうに言ってくれた。訪問も、部屋に入られるのがいやならいやで大丈夫だと。玄関先でもいいからと。いや、でも、部屋に入られるのもいやだけど、玄関先で話すのも無理だし、正直に言ってしまえばだれもかもなにもかもむり……って感じなのでもうこれからも部屋にあがってもらうことにしようと思う。部屋掃除のモチベーションになる。

 

 ぜんぜん関係ないが、夢のなかで紫色の花を見た。わたしがだれがしかにあれは燕子花にちがいないと話していたのだけれども、わたしは菖蒲も花菖蒲も燕子花も見分けがつかないし、どれもきちんと見たことすらない。なんであんなに自信があったのかわからない、夢のなかの自分。もしかしたら自分ではなかったのかもしれない。

昔の話「リフレックスでみるゆめ」

 レスタスとデジレルではどうも眠れていないのではないかということがあきらかになり、朝起きて布団の中でぐずぐずと動けずにいる時間をのぞくと睡眠時間が平均4時間ほどということが白日の下にさらされた。そのため、処方変更。リフレックスロラメット。以前もやっていた処方だ。食欲も増やそうという魂胆。体重が44kgを割りそうなので。ヤバい。ついでに漢方薬が増えた。人参のやつ。ツムラの108番。

 さてリフレックスについては以前にも記事を書いた覚えがあるが、すっかり忘れていた。ねむい。非常に眠いのだ。飲みはじめてから三日~一週間ほどは。死ぬほど眠くてなんだろうと思っていたが、リフレックスの影響だった。忘れていた。というか一回やったらもう慣れるのかと思っていたが、慣れたりはしないらしい。また飲みはじめるたび新鮮な眠気。でも今回は以前ほどはふらつかないのである程度は慣れているのかもしれない。

 

 そして夢を見た。リフレックスで見る夢はたいてい悪夢だ。なぜか知らないがリフレックスでは悪夢を見る。これは医学的にはなんのエビデンスもないが、服用者のあいだで口コミのような感じでひろがっている。

 悪夢の内容というのが、これまでわたしが受けた暴力や犯罪被害やその他もろもろがぐちゃぐちゃになって合わさった、滑稽劇のような感じだった。悲劇もきわめると喜劇になる。殴られ押さえつけられふりまわされ投げつけられその他もろもろ。さぞ傷ついたろうと思われるかもしれないが、どうにもわたしはこれらの記憶と解離してしまっているようで、いまだに同化できていない。簡単に言うと自分の身に起こったことだと、わたしはどこかで信じていない。これは一種の防衛機制だ。

 ここまで書いておいて信じていないもなにもないわけだけれど、もし、だれもいない森の中で木が倒れたとして、その音がしたことを証明できるだろうか。わたしが「おぼろげにおぼえている」だけの記憶は、ほんとうのものだろうか。わたしにはさいわい姉と妹がいて、虐待については証言してくれた。だからたしかにあったことなのだろう。

 つまるところ、わたしが回復して、解離が消え、ズレていた記憶が完全にわたしのもとへと帰ってきたときに、やっとわたしの治療がはじまるというわけだ。

 

 話がそれたがまあその夢は内容は前述したとおり。問題は終わりかただ。わたしは警察に電話をした。父はずっと警察なんて来ないと言い張り続けていたが、警察は来て、父をしょっ引いて行った。わたしは安心した。警官が「もう大丈夫だからね」という。

 そこで目が覚めた。

 

 これほど願望を投影した夢もないなあと思った。わたしはたぶん、あの地獄がいまだにわたしの立っている場所と地続きの場所に存在して、曖昧模糊としていることに耐えられないのだ。すべてつまびらかにして、終わらせて、しまい込みたい。片付けてしまいたい。そのままにしていたくない。その過程で、父は罰せられてほしい。わたしにしたことを心底から申しわけないと感じてほしいのだ。そうすることでわたしの人生はようやくはじめられる。

 そんな言いぶんがどれだけばからしいかよくわかっている。もはやわたしは大人になって、もはや父はわたしを害することはできない。わたしはその気になりさえすれば、父を殺すことさえできる。そのうえで、まだ過去の負債の帳尻を合わせることにこだわるのか。どうしてわたしは姉や妹のように過去は過去として、いまを生きていけないのか。

 過去をいつまでも終えられない。切り捨ててしまえるだけの強さもない。一時期はまったくべつの人間になって生きることさえ考えたけれど、わたしの脳髄がそこにあるかぎり他人はごまかせても自分はごまかされてくれない。

 

 父はいま、妹の娘を相手によきおじいちゃんとしてふるまっている。過去にそのちいさな女の子と同い年の自分の娘を、どれだけ打ち据えたか、彼はもう覚えてはいないんだろう。

生活保護「現代に生まれてよかったねという話」

 カテゴリ「前段階」のどこかに申請まえに多少ごたごたがあったと書いたと思う。このごたごたについて書いた記憶があるようなないようなあいまいさだったのでとりあえず書いてみる。

 

 ごたごたというのは実家に連絡したことに端を発している。ネットで生活保護についてやたらと調べまくったため、だれかが生活保護を申請すると、四親等内だか三親等内だかに扶養照会というかたちで連絡がいく、とその時点では思っていた。あいまいだったが、父母、兄弟姉妹、父方母方の祖父母までということだ。サイトによっては祖父母は含めない場合もあり、こっちのほうがいいなあと思ったりしていた。

 が、国の制度に頼ろうという以上、あれもイヤこれも無理では立ちゆかない。わたしは祖父母にまで連絡がいくものとある程度覚悟をした。ただ、両祖父母ともすでに年金暮らしであり、母方は祖父がすでに亡くなっているのでそういうことを理由に先んじて阻止というかそういうことはできんものかなと考えてはいた。どう考えても孫が生活保護を受けるとなれば両家の祖父母が衝撃を受けるのは間違いないからだ。

 

 だからまあとりあえず母に説明をしようと思った。このとき、わたしは重度のうつ病だったが無理やり派遣バイトで金を稼いでなんとか生計を立てていたものの、予定していた高額バイトがある事情から取り消されたという事情があった。精神的にも肉体的にもいろいろと無理。

 母に話せばわかってもらえるとはまったく思わなかったが、ただ生活保護の申請をするから扶養照会の封書が届きますよということのみメールで説明したところ、なんかちょうど近くに来ていたとかで駅に行くから来て説明をしろと。どうせ仕事終わりに駅近くを通るので、いまさら会って話してなにもかわるものじゃないと思いつつ了承した。

 祖父母にまで照会がゆくなら、たぶんいちばん気にするのは母だし矢面に立とうとするのも母だ。父はただほっとけと言うだろう。なので、会って話すのが母の希望であるならそれを叶えるべきだと思った。迷惑をかける立場の人間として。

 

 まあそれでも会わなけりゃよかったなというのが率直な感想。

 

 母は約束の時間に二時間ほど遅れて来た。仕事終わりで精神的肉体的に限界ですしあすも仕事ですので手短にというのを説明していたにもかかわらず二時間待っていたわたしは疲労で死にそうだった。どっかのカフェにでも入ってろよという話かもしれないが、そんなむだ金をつかえるようなら生活保護など申請しない。

 そして母はごちゃごちゃ言いながらとりあえずなにか食べようと言い出した。食欲がないので最近なにも食べられていないという説明をしていたにもかかわらずなにが食べたい? と訊かれてなにを答えればいいのか。なにも食べたくなかった。帰って寝たかった。結局母の希望でどっかのパスタ屋に入った。ほんとうになにも食べないのか訊いてくる母。いや食べるとか食べないとか以前の問題で完全に食欲不振なんだ。店に入るまえから食事は無理だと再三言っていたのになんだこれは。わかっている、ふたりで店に入って片方しか食べないのが周囲からどう思われるかとかそういうことが心配なんだよな。マザーシンクスザモストインポータントシングイズ世間体ザンハードーター。英語がおかしい。

 

 ここでの母の言い分を正確に書き出すとおそらくうつでなまぽはじまって以来の大長編となってしまうし、正直もう忘れたので簡潔にいうと母の主張はふたつだった。ひとつ。「おまえは絶対に生活保護に通らない」。ふたつ。「実家に戻って療養すればいい」。

 たぶん脳みそが腐ってるんだろうな、と思った。

 前者については母にはいちおう根拠があり、その昔生活保護の要件を満たすのがたいそう厳しかったころに県庁職員だった父は申請者の遠い親戚の家にまで財産調査に出張したことがあったらしい。しかしそれはどう見積もっても十五年以上は昔のことだ。わたしが物心ついてから父が生活保護にかかわるような課に配属された記憶はないし、まあネット情報ではあるが、たとえ扶養照会で連絡が来たとしても財産調査などはなく断る権利があり、扶養を強制されることはいまはないということだった。時代が変わったのだ。そんな状況で遠い親戚にまで財産調査の手がおよぶなどということもないだろう。

 ネット情報と言っても厚生労働省やらいま住んでいる都道府県市区町村の公式サイトを調べたうえで出した結論だ。扶養照会はあるかもしれないが祖父母までで、財産調査はないと説明した。母はなぜかふてくされたように、「絶対無理だから、受けられるわけなんてないんだから」を繰り返していた。わたしはこれを自分で調べたうえでいまの情報として結論を出した、そちらの根拠としている父の仕事のあれこれは情報として古すぎるというと黙り込む。そしてまた「でも、絶対に無理だから」と繰り返す。ほんとうに、心底、うんざりした。

 生活保護が受けられない可能性、それはそれとして受け止めるが、というかそもそも覚悟しているが、とりあえず申請はして判断を仰ぎたいと言っているのに、ずっと「でも絶対無理だから申請自体やめろ」の繰り返し。わかってる。命より大事な世間体。世間の目。はいはい。

 

 後者についてはまあまえからずっと思っていたが、このひとはわたしを虐待していた自覚がないのだなというのをあらためて実感した。殴られていたときに助けなかった。夜中に追い出されているときにも止めなかった。それどころか、延々と夫婦のこと姉妹のこと親戚縁者のこと自分の生い立ちなどの愚痴を吹き込み、わたしを自分の愚痴のごみ箱、そしてケア役に仕立て上げた。子どもだったわたしにとって、それがどれほどつらいことだったか理解していないのだなと。

 母は、支援者面をして、虐待者であった父とわたしを調停するつもりでいる。まったくお門違いだし不可能だ。あのときなにもしてくれなかったのに、いまさらなにをしてくれるというんだ。なにをしてくれると信じればいいんだ。

 

 くわえて、母は精神状態の悪いわたしを受け入れるようなことを言いながら、「どうして仕事を辞めたの」、「どうして実家にもどらなかったの」と繰り返し繰り返し責めた。本人曰くただの質問らしいが。

 いま、仕事を辞めた理由の説明をしろと? この精神状態で?

 どうして実家に戻らなかった? 虐待者であったご両親が生存してあそばして、虐待の舞台となったマンションの一室といういわゆる実家でいまでも暮らしていらっしゃるようだからかな。

 

 上記の大項目ふたつ、小項目ふたつを理解していない時点で、もはや母との会話は完全に不毛だった。なにを話せと言うんだこの女と。会ったのが間違いだった。いや、この女から生まれたのがそもそもの間違いだった。この女はわたしを産まれるまえに殺すべきだった。そうするべきだったのにしなかった。

 母の性格はよくわかっている。母は口では許すというが、母は決して、長く療養し治らないわたしを許さない。いつまで、いつまでと「我慢」をし続ける。そしてそのうちにそのつけをわたしに支払わせる。よくよくわかっている。これでも二十年母の娘をやってきたんだ。

 このときははっきりと診断されたわけではなかったが、そののちPTSDによるうつ病と言われることになり、機能不全家族で育ったアダルトチルドレンの自助会をすすめられることになるので、原因である実家にもどり、父母のそばにいるかぎりわたしの病気は治らない。しかし、自分を加害者と決して認めない母はこれが理解できない。

 実家へは「行けない」。もう帰るところですらない。あの家に帰って治るはずがない。そう主張した。真っ向から対立だ。ちなみにいまは母は父が不倫してると騒いでたびたび喧嘩をしおこもりを繰り返しているそうだ。行かなくてよかった。行っていたらたぶんいまごろ生きていなかっただろう。

 

 まあ当然最後は物別れに終わった。姉によればその後、母はずっと絶対に申請が通るはずがないんだからとか実家に帰ってくれば少なくとも家賃はいらないのにとか言っていたらしい。後者について姉は「そういう問題じゃないだろ」と思ったが言わなかったとか。賢明な姉。

 そして扶養照会に対し母は「引き取って扶養する」と書いてきたが、これは生活保護のカテゴリで書いたとおり、わたしが拒否したので強制されることはなかった。そして生活保護の受給が認められた。

 あとついでにいうと扶養照会は母と妹にしか行われなかった。父と姉は母と同居していて、妹だけが結婚して独立して生計を別にしているので。祖父母まではいかなかった。まあ、ほっとした。

 かたくなに「おまえは絶対に生活保護受給なんかできない」と言い続けた母はこの結果についてどう思っているんだろうとたまに考える。まあ泥風呂につかり石水で米を炊いて祭壇に祈って、たまにパートに出ていれば、そんなことを思う暇もないかもしれない。マルチカルト所属だから忙しいのだ。

 

 

 で、最後に、話は変わるが保護課の相談員さんがやめるらしい。まえは異動になるかもということで多少ショックを受けるくらいだったのだが、いまはなんかどうでもよくなってしまっている。いろいろと世話をしてくださったことには感謝してもしきれないのだが、母の話をしたとき、相談員さんも母親だからなのか、それともわたしの意見とのバランスを取ろうと考えたのか、「お母さんにもなにか事情があって……」と発言したのだ。

 なんだか、ものすごくさめてしまった。気持ちが引いたというか。わたしはずっと、二十年間、ずっと、母の事情について考えつづけてきた。考えなければいけない立場にあった。なんなら母の幼少期からいままでの成育歴さえ知らされている。事情なんかすべて承知のうえだ。母がどれだけ苦しい思いでいままで生きてきたかも、何度も考えた。けれど、母の事情がどのようなたぐいのものであろうと、わたしの人生ともはや切り離されているべきものだったのだとやっと理解したのだ。

 そこに、「お母さん側の事情もあるから、考えてあげないと」とでもいうような、世間的な正論をかけられて、ああ、このひともふつうの家庭で育ってふつうの家庭を築いたふつうのひとなんだ、というあたりまえのことを理解して、それならこう言うのも道理なのだろうなと了解した。結局この相談員さんも、わたしのことをふいに普通の正論で道理をもって善意のナイフで心臓を狙ってくる、幸福な人間と変わりはしないんだなというそういう幼稚なことを考えた。

 おかげで、相談員さんが仕事を辞めるということを聞いてもそうショックは受けなかったので、結果オーライだと思う。つぎはどんなひとかな。まあなんにしろ、ふつうのひとなのだろう。

精神科受診「よくわからない心理検査」

 精神科で絵を描かせるとなるとたいていが木。どうして? 不思議だ。森林限界のさきにすむ精神病患者にも木の絵を描かせるんだろうか。この木なんの木気になる木。バウムテストとかツリーテストとか呼ぶらしい。スイスのなんとかとかいうひとが考案したとかなんとか。なるほど、だからバウムなんだな、バウムクーヘンのバウムだ。医学用語がドイツ語の時代だったのか、このなんとかさんのつかっていた言語がおもにドイツ語だったのかは知らないけど。

 

 わたしは絵がうまいというわけではないけどまあていねいに描こう……とは思って描いた。「実のなる木を一本描いてください」ということだったので、まあそこはこう……上三つ又で下も三つ又の独鈷しょ? みたいなやつ、ああいう木を描いて、葉っぱは書かなかった。イメージになかったので。果物はりんご。そう見えなかったかもしれないけど。一個で。

 葉っぱは書いたほうが自然な気がしはしたけど描かなかった。イメージに合わなかったから。あとで理由を聞かれたとき「たぶんこれはもがれ忘れたりんごで、冬が来てしまったんだ」とか説明したような気がする。そのまえにはこの木にあなたはどういうイメージを抱いているかときかれたときには「これはりんご農家の木で、一個だけりんごが残っているのがわざとなのか忘れられたのかと不思議に思いながら道を通り過ぎるときに見る」という説明をしていたのに、自分で答えを出してしまった。というかりんごの木って丸裸になる? 意味不明だな。ずぶぬれだったのでちょっと頭がおかしかったのかな。

 地面は描かなかった。実のなる木を一本というオーダーだったので、地面も空も描かなかった。言われてないものはわざわざ描かない。実のなる木を一本と言われたのだからね。

 

 まあそんなかんたんな絵なのですぐに描き終わって、見てみるとまあ絵が小さい。貧相だ。全体的にちいさいしりんごも小さい。これでなにがわかるのだろうと思っていると、臨床心理士さんが、もう一枚画用紙を取り出し、こんどはボールペンで枠線を引いた。このとき、わたしは「なんだか遺影みたいだなあ」と思った。

 臨床心理士さんはまた同じ、実のなる木を一本というオーダーだったので、こんどは、さっきの木の遺影を描くことにした。木の遺影ってなんだよと言われても困るが。さっきとほとんどおなじ絵を、ただ遺影なので根っこは描かず、全体的にやや大きめに。遺影だから。遺影だからしかたない。りんごの実をべつの枝に書こうかと思ったけど、やめた。りんごはこの枝にあるべきだと思ったので、動かさなかった。あるべきものはあるべき場所にあるべきだ。

 

 そして絵についての質問タイム。上でも書いたようなこととかなんとかいろいろ。ひとによってはこの絵で相手の性格がぜんぶわかる! というようなひともいるらしいが、テストしてくれた臨床心理士の先生はそうは思わないらしい。ただ一面くらいはわかるかもとか、いちばん自分をわかってるのはあなただから的なことを言われたがいや……わからん……さっきも木の遺影とかいう意味のわからんもの描いたばかりだし自分がわからん。

 とりあえず遺影のほうの木が安らかなのだという話はした。りんごはもがれ忘れたのか意味があってあえてもがずにいるのかわからないけど、もうどうだっていいし、腐って落ちることも鳥につつかれることもない。もう葉っぱがうっとうしく茂ることもなく、実がたわわになってもがれなくてもいい。いや、もう遺影であるから、そういうことを感じるのは客体であるわたしだ。いなくなってしまった木が、こうして遺影になることで、わたしはりんごの木がもう存在しないことを確認できるし、忘れることができるし、思い出すこともできる。遺影によって。

 その後この木はあなた自身だという気はするかというようなことを訊かれたが、否定した。わたしはいつだってながめているだけだ。描かれたりはしない。ながめるのはわたしのほうだ。とかいってながめられていたりするんだろうな。

 

 先生たちの見解はつぎの受診のときに聞かせてもらえるそうだ。しかし、帰りながらどうしてあんな絵を描いたものだろうと自分ながら不思議に思ったりした。酔ってるとでも思われたんじゃなかろうか。問題作を残してきた、そんな気がする。いや、でも、ただの典型的な絵なのかもしれない。木の遺影。そんなことはないか。

精神科受診「結局吹っ切れなかった気持ちと解離について」

 先日姉と妹の件でもはや両親に対するいろいろな気持ちが消え、ある意味吹っ切れた、とか、いややっぱ吹っ切れてない、とかよくわからんことを書いたと思う。正確に言うと、いままでのぶんがある程度吹っ切れて、また吹っ切れないものがのしかかってきた感じだ。

 いままでずっと、父に殴られているのがわたしだけだから、母にいろいろと吹き込まれているのもわたしだけだと思っていた。でも姉も妹も程度は違えど同じように愚痴のゴミ箱だった。それを知ったとき、姉は「笑える」と言った。ツイートで。わたしももはや笑うしかなかった。三姉妹、二十年以上たつまで、自分だけが「離婚する」とさわぐ母の言葉を聞かされていたと思っていたのだ。笑うほかにない。なにもない。

 このとき吹っ切れたのは、父も母も、子どものわたしにはどうしようもない人間だったとわかったからだ。わたしにも悪いところがあったかもしれない。けれども、父母を変えることはわたしには絶対にできなかった。わたしはたしかに反抗的で生意気な子どもではあったが、それが理由で血が飛び散るまで殴られるようなことはあっていいはずがなかった。夫婦生活のことや親せきのこと、姉妹のこと、父のことをずうっと愚痴られ、人間不信を植え付けられていいはずもなかった。

 

 けれども、どうしようもなかったという結論は、希望であるとともに絶望でもある。「すべてわたしのせいだ」と嘆くのは、悲劇のヒロインを気取る以前の効果として、とてもものごとをシンプルにする。わたしがいたから、父は暴力に走らざるを得なかった。わたしがいたから、母はストレスをためるあまりにわたしへ依存せざるを得なかった。わたしさえしっかりしていたら、わたしさえいなかったら。自分を悪者にするのは、虐待を正当化し、自分を無理やり納得させる薬みたいなものだ。わたしが悪いとさえ思っていれば、殴られてもなにをされても、表面上抵抗したり歯向かったりしたとしても、根底にわたしがわるいのだという思いさえあれば、いびつな家庭を正常なものだと錯覚して生きていける。

 しかし、気づいてしまえば、それが急にひっくり返る。「あなたはなにもわるくないんだよ」と言われる。その言葉を喜べるひとは健全だ。健全でないわたしはこう思う。「じゃあ、なぜ、わたしはあんな目に遭わなきゃいけなかった? どうしてこれからも、治しようのない傷を抱えて、ほかの健全な家に生まれた人間たちより苦労をして生きていかなきゃならない? わたしはなにもわるくないのに?」。のしかかってきたものはこれだ。わたしがあんなに、子どもなりに努力して、手を尽くして、必死にやってきたこと、耐えてきたことは無駄だった。これまで生きてきたことがすべて無駄だったし、これから生きていくこともまた無為である気がする。

 

 もうひとつ。わたしは過去を思い出したいと思っている。わたしの過去の記憶は、鮮烈なところもあればあいまいなところも多くある。フラッシュバックも感情だけが押し寄せてくるときがある。だから、すべて知りたい。なにがあったのか。しかし、姉と妹はなんとなく思い出したくない、封印してるというふうに言う。無理に聞き出すのは酷だろう。わたしは知りたい。思い出したい。しかしそれでだれかを傷つけたくない。

 たぶん姉と妹のほうがただしい。忘れてしまったほうが賢明だ。主治医もよく言う、さきのことを考えていこうと。ただ、わたしの性格として、もやもやとあいまいにしたままにしてしまうのがいやなのだ。

 

 わたしがなぜ過去について思い出せないところがあるのかと言えば、おそらく解離のためだろうと思う。わたしは、いまでもやってしまうことがあるが、相手が怒っていると思う、不機嫌だと思う、批判されていると、それがどんなに正当なものであり、もの柔らかでていねいな態度を取られたとしても、パッとスイッチが入る。切れると言ったほうがただしいだろうか。解離のスイッチだ。

 肉体的には神妙に聞いていたり、涙を流していたりするのだが、精神的には完全に離れたところにいて、耳をふさいで、目を閉じて、嵐がやむのを待っている。なにも聞いていないし感じていない。そのあいだ、からだのほうは不思議なもので勝手に泣きながら「すみません、ごめんなさい」と繰り返していたり、「はい、はい」と適切に相槌を打っていたりする。そこに人格があったら解離性同一障害ということになるのかもしれないが、たぶんそうではないのでこれは単なる解離だと思う。いや、主治医にはっきり訊いたことがないのでわからないけど(頭が真っ白になるという話はした)。

 父が怒り狂って殴打するときや、母が見当違いなことを言ってわたしをなぐさめるとき、精神的に距離を取ることは非常に重要だった。肉体の傷はいずれ治る。傷があったことは消せないけれど。精神の傷は、ときとして生涯付き合っていくほかなくなることがある。そのことを知ってはいなかったが、察してはいたのかもしれない。もしくは精神というもの自身が、自動的な防衛機制を働かせてくれたのかもしれない。

 

 この解離もふくめて、わたしは、すべてについてこれだと言える原因が知りたい。たぶん主治医は反対するし姉も妹も協力してくれないのでかなわないだろうが。希望のないパンドラの箱を開けるようなものだ。正常であればしたがらないだろう。

 

 昔、わたしは母の嫁入り道具の箪笥やら化粧台やらがある部屋を自分の部屋にしていた。うちは3LDKのマンションで、三姉妹だったので、それぞれにひとつ部屋を割り当てられていたのだが、いま思えばなんと厚遇だったことだろう。まあ、それはそれとして、父はなんだかよくわからないがときどき「部屋替え」を行いたがった。学校で行う席替えのように、三つの部屋をこんどはおまえはあっち、おまえはそっち、というふうに替えるのだ。父の提案だったと思うが姉妹の希望だったかもしれない。思い出せない。

 それで、上記にある部屋がわたしの部屋だったころ、掃除をしているときにクッキー缶を見つけた。母はパッチワークに凝っていたので、裁縫道具かなにかかと思い開けてみると、なんと父母の結婚前の恋文のやり取りだったのだ。どうしたかって? わたしは読んだ。すべて。好奇心からということは否めなかったが、あの仲の悪い父母が、どうして結婚したのか、理由を知りたかった。見合いでもあったのか。なにか理由があったのか。

 しかし、恋文から浮かび上がってくるのは健全に恋愛をしている若い男女でしかなかった。文章を一部だけ覚えているがここには書くまい。プレ父はプレ母を愛し、プレ母はプレ父を愛しているのがよくわかる文章だった。愛にあふれていた。恋愛をしたことのないわたしには不思議にさえ思えるほどに。

 それがいったいなぜこうなってしまったのだろう? なぜ恋文を交し合うような男女が地獄の家庭を作り上げることになったのだろう? わたしはその理由が知りたい。けれど、それはおそらくわたしの傷を癒しはしないどころか、さらに深めるものでもあるのだろうとわかっている。わたしは一生、このもやもやとした不可解な気分を抱えて生きていくのだろうと思う。

 

 きょうは心理検査というのを受けた。どんなことだったか忘れたが、なんとなく自閉症スペクトラムをはかるような感じのテストだったと思う。深く考えないようにしながら、そう思う、どちらかというとそう思う、どちらかというとそう思わない、そう思わないという質問文に答えを書いていった。結果は次回の診療時にわかるそうだ。あとつぎは臨床心理士さんにご対面するとかなんとか。精神のプロであろうし、女性であるようなので、あまり心配はしていないが、また「相手が自分になにを望んでいるか」を必死に探ろうとするだろう自分を思うと気が滅入る。

 

 あ、あと体重計を買った。いつもは病院で計らせてもらっていたんだけど、もう30歳をすぎて、自己管理の必要性を感じて、あとついでにiPhoneに体重とかを記録するアプリが入っていたから。最近野菜ジュースと牛乳だけで生きているので、どう考えてもヤバいよなと思ってたのも購入理由。安くていいから体重計れるだけのやつにしようと思ったんだけど、これがクッソ重いのな。持ち帰る気力がない。結局、エレコム? の産学共同というやつがちょっと安売りしていたので、そっちを買ってしまった。クッソ重いのの4倍くらいの値段した。産学協同って、なんかすごくワクワクしてしまうし、すばらしいもののように思える。身長も登録でき、BMI体脂肪率、骨量とかまでわかる。ほかにもわかることがあったが忘れた。

 そして計った体重……44kg。BMI15くらい。体脂肪率は28%の標準値で筋肉がないことが明白すぎて泣ける。いや泣けもしない。ヤバい。きょう、食べもののにおいをかいでも食欲がわかなかった。このままだと栄養失調で死ぬ。