うつでなまぽ

うつ病でPTSDでアスペで生活保護受給中の生きものがいろいろ書きます。

こもごも「ハンドクラフト、いわゆる手仕事」

 近ごろ気分が落ち着かないとか落ち込むとかいう症状がぼろぼろ出てくるので、手仕事をしている。まえはこういうとき本を読んでいたんだけれども、そういう気分でもないのだった。なぜか知らんけど。

 

 とりあえず家にあった材料(刺繍糸と紐)でマクラメ編みをしてみたり、100均で売っている「ニットが簡単に編める」みたいなやつで無意味に家にあった毛糸を編んだりしている。いまのところ。指さきを酷使するのでヒリヒリするほかはまあ気分は悪くはない。いちおう作品といえるようなものもできた。姪と甥にでもやろうと思う。大した出来ではない。よって写真はない。

 

 マクラメ編みはけっこう奥がふかく、まだ入り口をちょろちょろしているだけだけれども、とりあえず平編みと包み編み用の梯子編み? はなんとなくできるようになった。自分用メモのために、まちがっているかもしれない編み方を記事にするかもしれない。そのうち。

うつ「やらかしたことと正式に精神障害者となったこと」

 おまえどうしたみたいなテンションの記事を書いて一か月放置とかどうかと思う。

 

 まあそれはおいておくとして、やらかした。めっちゃやらかしました。なにをやらかしたかというと自傷。たいした傷にはなってないけど自分でもこんなことするんだなーと言うおどろきの体験。姉が昔やっていて、「うっわキモッ」と思っていたしくちに出しても言っていたからね、当時のわたしよ、おまえも十年後くらいにやらかすぞ。

 手首とかじゃなくて手のひらを切りました。包丁で。いい年してなにやってんだおまえ。でもやっちまったもんはしかたねえ。

 

 しかし、やっちまったもんはしかたねえとしても、ヤバいのはなんかそれが楽しかったことなんだよね。酒が入っていたこともあるかもしれない。ストロングチューハイロング二本あけていました。これもやらかしですな。やらかしてばかりじゃないか。酒を飲むから……という理由でその日は薬を飲まなかった。そんな変なとこだけしっかりしていてどうする。

 楽しかった、楽しかったというか、わたしはもともと出血に高揚してしまう人間なんだよね、子どものころから。わー血が出てるーってなってしまう。とくに自分の出血に対して高揚する。理由は知りません。中二病かな?

 あと、なんていうか、自助会結局行かなくなったんです。合わなくて。それで薬も効かないし、主治医が「ひとと会う機会があれば」って言うから、それを誇大解釈してネットのオフ会に無理やり参加したりとかして、それでもやっぱりうまくいかなくて、ものすごくあー自分ってだめだ、なにもできない、苦しいって気持ちがありましてね。主治医にすら申しわけなく感じてしまう。もうなにもかもに申しわけない。きっとこんな自分は失望されてると思うと、診察でもうまく話せなくて、どーでもいいことをしゃべってしまう。それであとからあのことを言いたかったのにとかグルグルグルグルしてしまう。

 そのなかで、やけになって酒を飲んで、手をすぱすぱ切って、血が出て、痛くて、ある意味感動したんだよ。この痛みはわたしが自分で自分にあたえたものだ! わたしはわたしの苦痛を制御している! みたいな気分になった。それと、精神のどうしようもない苦しみ、もどかしさに、肉体の痛みが加わることで、なんというのか、精神の苦しみが具現化されて昇華していくような錯覚をおぼえた。錯覚。たぶん錯覚。血が出ると達成感があった。

 

 そのことをまだ後悔できないんだよね。またやってしまうんじゃないかなあと思う。ので、つぎの定期受診のまえにちょっと主治医に相談する時間を取ってもらいました。さすがにうつでなまぽでアスペでPTSDリストカッターとかヤバい方向に進みすぎてる、いい年してなにやってんだという気持ちもあるので、なるべくもうやらない方向でいきたい。行きたい。生きたい? 逝きたい? 往きたい?

 

 そして精神障害者福祉手帳を受領しました。三級。まあ妥当な級。運賃とかがいろいろ半額になるみたいだけれどもあんまり公共交通機関つかわないのよね。まあこれはたぶん障害者雇用のために活用していくことになるでしょう。思ったより小さかった、手帳。手のひらサイズ。かわいいね!

こもごも「親子とはそもそも不平等な関係である」

 親であることをやめることはできる。やり逃げ、やり捨てができてしまう男がもっともわかりやすいだろうが、女だろうと、堕胎や生んでからどこかに預ける、あるいは捨てるなどの方法で親であることを放棄することができる。自分に子どもなんかいなかった。自分は子どもなんかつくらなかった。自分は子どもなんか生まなかった。そう思い込むことができないひともいるだろうが、できるひともいるだろう。

 なんでできるのかといえば、すべての人間が親になるわけではないから。つくらないひともつくれないひともうまないひともうめないひともいる。みんながみんな繁殖するわけではない。子どもをもたない人間はべつにめずらしくもない。

 

 子どもであることをやめることはできない。だれもがだれかの子どもだ。生物学的な両親がいない子どもは存在しない。そういう意味では、親のいない子などはどこにも存在しない。

 

 わたしはアホなので、一時期放射線のちからにものすごくあこがれた。わたしのからだのなかにある二重らせんをすべてぐちゃぐちゃに断ち切ってだれの遺伝子も持たない人間になりたかった。そんなことをすれば当然無残な死を遂げるだけなのはわかっていたけど。わたしは父に似ている。顔も似ているし性格も似ている。顔は遺伝子によるものだろうが、性格については遺伝子の影響だかいっしょに暮らしたことによるものなのかさっぱりわからない。

 

 よく、「子どもを愛さない親はいない」と言われるが、これはどう考えても間違いである。子どもを愛さない親などごまんといる。いないのは逆ではないか。親を愛さない子どもなどいないというのが真実ではなかろうか。子どもの親に対する憎しみや恨みの底にあるのはたぶん愛だ。愛というか、愛着だ。親個人に対するものではなく、親という存在に対するどうしようもない執着心だ。

 わたしは両親をにくんでいるしきらっている。ゆるすことは絶対にできない。それは両親ではなくてわたしの問題だ。にくむこともきらうこともやめてゆるしてしまったら、たぶんわたしは両親を愛してしまう。いまでも好きだ。

 インナーチャイルドという言葉があるが、わたしの気持ちをそういう存在に仮託するならばこうだ。ひとりの子どもはこういう。「お父さんとお母さんのこと、ゆるしてあげよう、なかよくしようよ、きっとわたしがわるかったんだから、こんどこそ、ちゃんとしたあのひとたちの理想の子どもになって、愛してもらおう! がんばろう、つぎこそできるよ!」、もうひとりの子どもはこういう。「ダメ、絶対ダメ、あのひとたちは愛してなんてくれないんだよ、わたしがなにしたってダメなんだよ、そんなひとたちゆるすなんておかしいよ、なにされたか、してもらえなかったかわすれたの? 怒っていようよ、憎んでいようよ! そうじゃないとダメだよ!」、そんな感じ。

 こういう気持ちがあばれるたび、わたしは自分を殺すか、でなければ、親を殺すかしないかぎり、なんの解決もみないのではないかという気がしてくる。

 

 親は子どもをえらべない。子どもは親をえらべない。そして、子どもは親から逃げられない。

こもごも「自助会とかいうのに通いはじめました」

 自助会というのはさっぱりと言ってしまえば似たような境遇のひとたちがあつまっていろいろと話す会のこと。親との確執なんかを、うっかりいわゆる「ふつうのひと」に話してしまえば、「子どもを愛さない親なんていないよ」とか「仲直りしなよ、親子なんだから」とかそう言う致命傷を負わされる危険があるが、自助会ではそういう可能性はほぼない。なぜなら似たような境遇の人間があつまっているから。「あるあるー」となる。これがけっこう楽だったりする。

 「自分だけじゃない」とリアルにわかるのはかなり大きい。この年になっても親に影響されてしまっているのも、そこから抜け出せなくて苦しいのも、いろいろ、わたしがとくべつ弱くてろくでなしだからではなくて、だれだってそうなる可能性があるんだ。と感じられるのはほんとうに救われる感じがする。主治医には言われていたんだけれども、「まあいうて精神科医の先生のリップサービスやろ」的な、猜疑心があった、猜疑心はほんとうに強い、自己肯定感が死ぬほど低いから、肯定されるほど猜疑心がふくらむ。

 

 いま行っているところはアルコール依存症の自助会ではないんだけれども、アメリカのアルコール依存症の自助会・アルコホーリク・アノニマス発祥らしい「12のステップ」というのを取り入れていて、これが最重要らしいのだけど、正直言ってこれがいちばんのネックだよなと思ってしまう。

 12ステップのプログラム - Wikipedia

 こう、宗教のさかんなアメリカで考えられたものなので、翻訳によっては「神」とか「ハイヤーパワー」とかいう単語がでてくるのだ。ウィキ先生では「偉大な力」となっているね。これはオウム事件以来宗教アレルギーをきわめている日本人にはかなりなじまないのじゃないか。わたしは無神論者だけど宗教の勉強はしたという人間なので平気だけれども。

 それにスピリチュアル(霊的)とかいう単語も、日本ではだいぶうさんくさい存在とされてしまったよね、残念ながら。

 

 まあ、日本人になじむように解説するならば、「生きていると、自分や人間のちからではどうやっても動かせない流れのようなものがある。わたしたちは、わたしたちの人生のすべてを制御することはできない。それらを受け容れる、受け入れやすくするため、あるいはそれらにわたしたちの懊悩をあずけて荷を軽くするために、『人知のおよばないものをつかさどり、支配する存在がある』ということにして、この存在を、便宜上『神』と呼ぶ」という感じなのかなあ。

 人事を尽くして天命を待つ、というのの「天命」であるといったほうがわかりやすいだろうか。

 

 しかし、わたしは無神論者だから、ステップを踏むことがまずむずかしいよなあ、などと思いつつ通っている。

 ふしぎに、この集まりはつかれない。たぶん、自助会にいるあいだは、「ふつうの家に生まれて、ふつうの親に育てられ、ふつうの人生を送ってきた、健全で定型のふつうの人間です」という演技が必要ないからなのか。逆に言うと、わたしは、ずっとずっと、そういう演技をし続けているのだなあ。などと思ったりした。

精神科受診「フラッシュバックとは何ぞや」

 最近よく実家の夢を見る。なにかおそろしいことがあるわけではなく、単に実家にいたころを思い出しているような夢だ。問題は、目が覚めても夢の感覚から抜け出し切らないところだ。

 わたしは実家にいたころ、玄関にちかい自室で、二段ベッドを解体した一段ベッドに寝ていたのだが、部屋を出ると廊下があり、向かいに姉の部屋とかトイレとかがあった。そう言う感覚がする。

 いま現在、わたしは実家の自室で寝ていて、姉の部屋には姉がいる。ダイニングには父母がいる。リビングには妹が寝そべっているだろう。そういう確信が去来する。いやいやおかしい。わたしの部屋はいまはワンルームだ。ひとり暮らしだ。わたしのほかにはだれもいない。理解しているのに、理解できない。わたしはすでに三十すぎた女なのだけど、親から逃れられない子どもであることを強く意識させられる。恐怖がわく。起き上がる。ああ、夢だったと気づく。

 

 以上のことを主治医に話してみたところ、「フラッシュバックが夢にでてきているんだね」ということだった。なるほど~。出てくるな。おかげで眠るのがイヤになりつつある。めざめるときにかならずイヤな思いをするとわかっているからだ。

 というわけでなんかよくわからんけど「フラッシュバックを抑える漢方」とか言うのを処方されることになった。そんな都合のいいものがあるの!? 四物湯というのと、けいしかしゃくやくとうとかいうやつ。なんだかドラえもんの道具でもだされたような気分になったが、よくわからんけど効果はあるらしい。ネット調べ。なんでもネットで調べる。でも機序はよくわかっておらず、どちらかというとけいしかしゃくやくとうとかいうののほうがフラッシュバック抑制に働いているのではないかな……? というあいまいな結論だった。

 このふたつを処方することを、神田川処方? 神田処方? とかそんな名前で呼ぶらしいが、いったいなにをおもってこのふたつを処方しようと思ったのか。べつのことで処方したらたまたまフラッシュバックがおさまったのか。謎が多い。よくわからない。

 とりあえず一週間飲んでみたがとくにいいことも悪いこともなかったので継続してみようということになった。さいわいまずくはない。うまくもないけど。どっちかおぼえてないけど、セロリみたいなにおいがするから、セロリがきらいだとつらいかもしれない。

 

 で、まあ、また受診したわけだけれども、どうにも精神がうまくない。フラッシュバックするし。フラッシュバックはフラッシュバックだけでもつらいものだが、精神が一気に過去につれもどされるので、そのあたりのことをバチバチ思い出してしまう。

 そうやって思い出して傷つく幼稚な自分がきらいだ。母には「そうやってぜんぶ母さんが悪いって言いたいのね」と言われてきた。父には「もうぜんぶ終わったことだろう」と言われてきた。どっちもちがうと言いたい。悪いって言いたいんじゃなくてわたしは傷ついたと言いたいだけだ。終わってなんかいない、わたしはいまもあのころを思い出して情けなく泣いてばかりいる。

 でも、父母の言葉はわたしにすっかりしみこんでいて、「悪意のないささいな言葉に傷つくのが悪い」「むかしのことを、気にしているのが悪い」「忘れればいいのに、忘れられないのが悪い」、そんな感じのことを考えている。

 主治医の先生は「あのときつらかったんだって認めてあげられるといいんだけどねえ」という。むずかしい。つらかったことはわたしがわるかったことで、単に自業自得のことを父や母のせいにしているとどこかで感じている気がする。わたしは最初からろくでなしとして生まれて、そのせいで苦しんだだけなのかもしれない。

 

 こういう人間にこそ神さまという存在が必要なのじゃないかと思うけど、宗教はたいてい父母を尊べと教えるんだな。ミッション系の学校に通ったので主の祈りをおぼえている。天にましますわれらの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、われらの日用の糧をきょうもあたえたまえ、われらに罪を犯すものをわれらがゆるす如く、われらの罪をも許したまえ、われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ、国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。アーメン。そして十戒には汝の父母を敬えとある。相性が悪い。

 親は子どもから逃げられる。男親なんかとくにそうだろう。孕ませるだけ孕ませて逃げることができる。女親も身体的負担はものすごく大きいけれど、おろすなり産むなりすれば、忘れてしまえるひともいるだろう。

 でも子どもは親から逃げられない。子どもをもたない人間はいるが、親を持たない人間はいない。その存在から逃げられない。いなければ存在できなかったから。まあもういっそ存在したくなかったなという気持ちもなきにしもあらず。

 

 そういえば、ゴールデンカムイで読んだけど、アイヌ民族には「子(他人の子どもでも)をきちんと育て上げないと、死後にとむらいをして送ってくれるひとがいないから、天の国へいけない」という考えがあるらしい。こういう、子どもを大事にしなければならないという宗教的な考え? はあんまり見ない気がする。教えのなかに組み込まれているというのがあまりないような。わたしがものを知らないだけかもしれないが。

 

 話がズレにズレまくったけれども、以上。

 そう、なんかちょいちょいコメントとかスターをもらってありがたいです。読んでおります。ありがとうございます。

うつ「精神がアカンことになっている」

 前回の記事は「発達障害関係の記事やんけ~」と思ったのでカテゴリを変更しましま。しましま。

 

 精神がここのところまるっきりダメで、なにがダメなのかなんでダメなのかまったくわからないほどにダメ。とにかくダメ。ダメとしか言いようがない。ダメのほかにこの状態を言いあらわす言葉を知らない。ダメーッ! 精神がとにかく「状況! ダメです!」と訴えてくるので、こちらとしては「そうか、ダメか……」と瞑目して受け止めるしかない。

 

 セロクエル、というかクエチアピン(アメルのジェネリック)を12.5mg/日飲んではいるんだけれども、これが入眠剤以上の効果をもたらしてくれているのかよくわからない。精神系の薬物ってそういうところがある。効いているのかいないのかさっぱりわからない。血液検査でもわからないし体温を測ってもわからないしなにをしてもはっきりしたことはさっぱりわからない。

 でもジプレキサの再投与はおもしろいほど効いたんだよな。奏功ぶりがめざましいほどだった。鎮痛薬、解熱薬などとひきくらべても、人生において、あれほど「薬が効いてる!」と感じたことはない。なのに高プロラクチン血症、おまえがさ……ほんとうにさ……どうかと思うよ。

 まあそれとくらべると、クエチアピンは効いていないんだろうな。精神がアカンことになっているもんな。こう、焦燥感だとか、心臓がざわめくような感じ、拍動ごとに全身をめぐる不安感、皮膚一枚の内側が黒い水で満たされているような感覚、そういうのが消えないんだよ。精神がアカン。ヤバい。

 

 最近は「オランダに行ってコーヒーショップで大麻をキメてハッピーになりてえ……」みたいなことまで考えている。LSDとかMDMA(エクスタシーとか言われてるやつ)とかはもともと精神病の治療のために開発されたドラッグだったのに、持ち出されてパーティー用につかわれるようになって医療用も禁止されたんだって(ナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーをみただけの知識)。なんかPTSDに効果があるかもってことでアメリカで帰還兵用に研究がなされているそう。ジャンキーが乱用しなければ治療につかえたかもしれないのに。ジャンキーをにくむ。

発達障害「障害じゃなくて個性ではとか言われても」

 こないだ、ひとと話してたんだけど、というかチャットをしていたんだけど、そのときに、わたしがアスペルガー症候群だという話になって、相手のひとが、「まえから思ってるんですけど、それって障害なんですか? 個性じゃないのかな?」みたいなことを言ったんだよね。

 まぶしいーと思った。

 まぶしくない? あまりにまぶしい。まぶしい意見。まぶしすぎるなー。

 そのひとがまた、「そうやって医者がみんな病気にしてしまう」とか、「アインシュタインだってあきらかにアスペルガー障害でしょう」というようなことを言う。ひーまぶしい。目がつぶれる。つらい。

 

 わたしは発達障害の診断を受ける以前から、こういう意見には懐疑的なんだよ。なぜかというと、健常者が「有能な障害者」だけをひろいあげて、選別しているようにしか思えないから。そうすることで、障害がもたらす苦痛とか苦悩とかを無視して、「障害じゃない、あなたの個性だよ!」なんて言って、無能な障害者を追いつめているようにしか思えないんだよね。

 だってさ、健常者、定型発達者の天才や有能なひとなんてごまんといるでしょ。だからって、健常者、定型発達者がみんな天才や有能なひとになるか? っていうと、ならないよね、当然。凡才や無能なひとは、天才や有能なひとよりたくさんいる。凡才や無能なひとは、健常者、定型発達者であるというだけで、天才や有能なひとをあたりまえの基準とされたらキッツい。障害者だって当然そうなんだよ。

 

 たぶん、こういう意見を言うひとは、差別してるなんて思ってないんだろうし、むしろ、「自分はほかのひとより差別してない」気でいると思うけど、いやいや、むっちゃ差別でしょ、と思う。障害を個性と言いかえるって、そうとう障害者に対する差別意識、障害者って呼ばれるなんてかわいそう、って意識がないとやんないじゃん。おなじような差別意識があるひとは喜ぶかも。そうなんです、私は障害者なんて呼ばれるような人間じゃないんです、って。

 まあ、ノーマライゼーションが進めば、障害者にとっての障害がなくなって、障害者という言葉が死語になるみたいな意見があるにはあるけど、身体障害にかぎっても世界じゅうがそうなるなんて無理だと思うし、精神障害発達障害にいたってはもう完全に無理と断言できる。話がそれた。

 

 わたしは、ずっとずっとずーっとどこかひととの関わりが下手で、がんばってがんばってもみんなとどこか違って、どんなにやっても変わってるねって言われて、それがとても苦しかった。なので、発達障害アスペルガー症候群ですね、って診断されたとき、だからだったんだ、って思えてうれしかった。うれしかったというと語弊があるかな。安堵した? よくわかんないけど、とにかく、わたしの努力不足とかそういうのじゃなくて、わたしはそういう能力がもともとなかったんだ、っていうのがわかって、まあ無駄な努力ばっかしてたなって哀しい思いもあったけど、わたしが悪かったわけじゃないんだ、障害のせいだったんだな、って思えて安心した。よかったなーって。

 なにも解決していないけど、わたしにそういう障害があるってわかることで、だからだったんだって納得できるし、しかたがないとあきらめられる部分がある。すくなくとも、これから無駄な努力はせずにすむ。無駄な努力をして、それでもできないことに対して「なんでできないんだろう、わたしがふがいないからだ」って落ち込まずにすむ。

 

 というわけでわたしは障害を個性と言いかえられて障害者じゃなくなるより、ふつうに障害者でいたいと思うね。

 

 ちなみに、その相手のかたは、わたしが「わたしは、そういうふうに障害だと言われることで、努力不足でできないと思っていたことが、障害があるからできないんだとわかり、安心できた」という話をしたら、納得してくださったので、よかったです。

 というわけで、とりあえずは、ハッピーエンド。